帆走軍艦

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帆走軍艦(はんそうぐんかん)とは、16世紀から19世紀ヨーロッパアメリカ合衆国で発達した大型帆船軍艦である。

概要[編集]

レパントの海戦によってスペインの大型の帆船軍艦オスマン帝国ガレー船に勝利したことによって、軍艦から櫂が消え、帆走専門の軍艦が登場するようになった。多くの大砲を舷側に配置し、その数によって任務が異なった。建造には巨額の費用がかかり、運用には高度な操船術が必要であった。このために、貿易によって巨額の富を得られ、外洋での航海技術を持っている海洋国家が有利であった。

種類[編集]

イギリス海軍には一等艦から六等艦まで存在した。そのうち一等艦から四等艦は戦列艦、五等艦と六等艦はフリゲートであった。一等艦は最大規模の戦列艦で、三層の大砲を持っていた。その建造費用は三等艦の二倍ともいえる規模で、旗艦を務めることも多かった。二等艦は一等艦に次ぐ規模で、やはり三層の大砲を持ち、一等艦の補佐を行った。三等艦も三層の大砲を持ち、バランスの取れた規模で重宝された。四等艦は、後世の巡洋戦艦に相当する戦列艦だが、規模が中途半端で、次第に使われなくなった。五等艦は二層、若しくは一層の大砲を持ち、軽快性と、高速が武器で、索敵通商破壊船団護衛沿岸警備に使用された。六等艦は小さすぎて、やはり使用されなくなった。いずれも新鮮なの当たる船尾にガラス窓の付いた豪華な艦長室を設け、逆に船首には便所を設けた。

乗組員[編集]

士官[編集]

艦長以下、士官当直勤務を行い、各部を指揮した。その身分は貴族で、兵学校を卒業しなければこのような高級将校への任命は不可能だった。

准士官[編集]

航海長(マスター)、装帆長(ボースン)、船匠長(カーペンター)、コック (司厨長)、軍医は、商船由来の階級で、実際、商船乗組員だった者もいた。准士官として士官待遇を受けたが、決して戦闘の指揮を司る士官ではなかった。コックは比較的早く准士官の範疇から消えてしまった。

下士官兵[編集]

下士官は兵を最も良く知るものとして兵を指揮する。水兵は、家庭や他の職場、商船から無理矢理連れて来られた。中には英語の話せないものもいた。その待遇は当時の世相を反映しても決して恵まれたものではなかった。居住地は相部屋で、持ち場と同じであり、ベッドではなくハンモックで就寝していた。食事も栄養が偏りがちで入浴もできず、便所も不足していた。さらに水兵に待っていたのは恐怖と暴力と権威主義だった。帰郷も上陸も許されず、脱走や反乱は例外なく死刑となった。水兵の死因は戦死よりも病気や作業中の事故がほとんどであった。高所からの転落は船上、海上いずれかであっても死に直結し、航行中の船から転落しても救助されることはほとんどなかった。大砲を固定するロープが切れると大砲が艦上を動き回り、水兵をひき殺すこともあった。また、逃亡防止のため、水兵に水泳を教えることは好まれなかった。少年兵は浮浪児を連れてきたもので、弾薬運びのほか、男色の対象にもされていた。

海兵隊[編集]

海兵隊は、陸軍式の装備をし、上陸作戦、白兵戦、反乱の鎮圧に当たった。任務の性格上、水兵とは移住区が異なっていた。

歴史[編集]

17世紀まで[編集]

地中海のように穏やかな内海はが低くても嵐で遭難することは少なく、そのため軽快なガレー船軍艦として使われることが長く続いた。しかし荒波に襲われる大西洋に出たスペインポルトガルは、大型の帆船による武装商船を使ってアメリカ大陸から物資を輸送した。大航海時代の幕開けである。このときの操船術を使って地中海でも帆船の軍艦を操ろうとした。大型の帆船には多数の大砲を搭載でき、舷の低いガレー船から舷の高い大型の帆船には切り込みは不可能に近いので大型の帆船は圧倒的に有利であるからだ。アルマダ海戦はスペインの大型帆船とイギリスの小型帆船の戦いとなったが、イギリス上陸を想定していたスペインは陸軍兵士を大勢乗船させ、海戦に不向きな重砲を搭載していたため動きが遅く、それ故、イギリスに敗れた。

17世紀[編集]

英蘭戦争は、海戦に特化した軍艦同士の戦いとなった。それまではスペインの商船に対する海賊行為を行っていたイギリスオランダは今度は自らの通商路を守るために戦うことになった。イギリス海軍は上記のとおりに軍艦を整備したが、オランダ海軍は武装商船も混じり、近海は浅瀬があることから船形は小さく、イギリス海軍に対して不利であった。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

外部サイト[編集]

帆船時代の英国海軍