崇福寺 (岐阜市)

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崇福寺(そうふくじ)とは、岐阜県岐阜市長良福光にある寺院である。宗派は臨済宗妙心寺派。山号は神護山。開山は独秀乾才

概要[編集]

岐阜市街の北、長良川河岸にある寺院である。文明元年(1469年)に当時の美濃守護であった土岐成頼とその重臣の長井長弘が悟渓国師門下の独秀乾才を開山として創建したと伝わる。

時代が下って永禄10年(1567年)に美濃を制圧した織田信長は崇福寺を菩提寺とした。そのため本堂裏にはこの15年後に本能寺の変で横死した信長・信忠父子の廟所がある。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで信長の嫡孫で信忠の嫡子である秀信が敗れた際、切腹した城兵の血が岐阜城の床板についたが、その床板はそのまま崇福寺の本堂の天井板に用いられており、「崇福寺の血天井」として現在に伝わっている。

なお、崇福寺の第3世住職は織田信長・信忠が天正10年(1582年)に武田勝頼を滅ぼした際、信長の残党引き渡し要求を拒否して恵林寺に火を放たれ、「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」と述べて死んだことで著名な快川紹喜である。

このように織田氏武田氏徳川氏と因縁の深い寺院のため、信長・武田信玄徳川家光・紹喜などの書状や、信長が愛用した櫓時計などが寺宝として伝わっている。

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関連項目[編集]