山名時氏

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山名 時氏(やまな ときうじ、嘉元元年(1303年) - 建徳2年/応安4年3月28日1371年4月14日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将守護大名室町幕府侍所頭人・引付頭人伯耆出雲隠岐因幡若狭丹波丹後など11ヶ国の守護を兼ねて六分の一殿(ろくぶのいちどの)と称されて山名氏の全盛期を築き上げた[1][2]。父は山名政氏[1]。母は上杉重房の娘[1]。兄弟に兼義。子に師義義理氏冬氏清時義氏重義数高義。官位は従五位下伊豆守・弾正少弼左京大夫[1]。幼名は小次郎[1]

生涯[編集]

正慶2年/元弘3年(1333年)に足利尊氏に従って上洛し、六波羅探題攻略などで武功を立てた[1]建武2年(1335年)7月の中先代の乱では尊氏に従って北条時行討伐に貢献した[1]。建武3年/延元元年(1336年)1月、尊氏が建武政権に背くとそれに従って西上し、尊氏が新田義貞らに敗れた際には九州への敗走、多々良浜の戦い、そして4月の湊川の戦いでの楠木正成・新田義貞との戦い全てにおいて足利軍の大将として戦い、その功績により建武4年/延元2年(1337年)に因幡守護職を与えられた[1]暦応3年/興国元年(1340年3月には桃井直常と協力して塩冶高貞を討伐し自殺させ、12月に丹波守護職を与えられた[1]

貞和4年/正平3年(1348年)11月に楠木正成の遺児である正行と天王寺で戦うが敗れた[1]観応の擾乱が起こると観応2年/正平6年(1351年)1月から足利直義に属した[2]。しかし直義は翌年に毒殺とされる謎の急死を遂げたため、直義の養子である直冬を奉じて以後は南朝に属して反幕府勢力の中心的存在の一人となった[2]。これには嫡子の師義が若狭の所領をめぐって尊氏と対立した事も一因している[2]

文和2年/正平8年(1353年)6月に楠木正儀石塔頼房らと協力して高師詮を破って京都を回復した[2]。しかしこの京都回復はわずか1ヵ月半で尊氏らの反撃を受けて敗れ、7月末に時氏は京都から撤退した[2]。文和4年/正平10年(1355年)1月に直冬を奉じて但馬・丹波から東上し、石塔頼房や桃井直常と協力して2度目の京都回復を果たしたが、この際も尊氏らの反撃と山名軍の兵糧不足から京都から撤退した[2]

康安元年/正平16年(1361年)7月に赤松貞範が支配する美作を攻め、11月に同国を制圧する[2]。こうして時氏は京都支配にこそ失敗したが山陰から山陽にかけて強大な勢力を確保して領主権を拡げ、領国内において強力な被官組織を築き上げていたが、全体的に見れば南朝は室町幕府を中心とした北朝勢力の前に押される一方で衰微しており、貞治2年/正平18年(1363年)に第2代将軍足利義詮より一色詮光が使者として送られて幕府への帰順が勧められると、時氏は自らの実力で獲得していた山陰・山陽などの5カ国の所領安堵を条件とし、義詮はこれを承知したので時氏は幕府に帰順した[2]。さらに後に出雲・丹後の守護職も追加された[2]

応安元年/正平23年(1368年)に第3代将軍となった足利義満に従い、今川貞世佐々木氏頼赤松義則仁木義長と共に幕府の評定衆となる[2]。応安3年/建徳元年(1370年)4月に細川頼之に従って河内を攻めた[2]。この年の12月、家督を嫡男の師義に譲って隠居する[2]。翌年3月に死去した。享年69。

法名は光孝寺殿鎮国道静居士。

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i j 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』新人物往来社、1990年、P625
  2. a b c d e f g h i j k l m 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』新人物往来社、1990年、P626

参考文献[編集]