芳賀高定
ナビゲーションに移動
検索に移動
芳賀 高定(はが たかさだ、大永元年(1521年) - 天正16年(1588年))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。下野宇都宮氏の家臣。
略歴[編集]
益子勝宗の3男。受領名は伊賀守。3男であったが、主君の宇都宮尚綱に抜擢されて、宇都宮氏に反抗的な芳賀高継・芳賀高照に代わって芳賀氏の当主に据えられる。天文10年(1549年)、その尚綱が喜連川の戦いで那須高資と戦って敗死すると、宇都宮城は芳賀高照に占領されてしまい、高定は主君の遺児でわずか7歳の宇都宮広綱を助け出して自らの真岡城に迎えて自ら広綱の後見役となる。そして、尚綱の復讐を果たすために機会をうかがい、天文20年(1551年)に仇敵の那須高資が実弟の那須資胤との間に確執があるのを見ると、那須一族の千本氏を誘引した上で、千本資俊に高資を謀殺させることで仇敵を排除した。さらにこの事変で動揺する芳賀高照も滅ぼした。
その後は成長した広綱の後見役として協調体制をとりながら、宇都宮家第一の重臣として執政した。『関東幕注文』においては高定を宇都宮氏の「家風(この場合は重臣を意味する)」筆頭に挙げている。高定は佐竹義昭や足利義氏、那須資胤らと協調しながら、時には関東制覇を目指す北条氏康とも連携したりするなど、巧みな外交を展開して宇都宮氏の存続に尽力。広綱を尚綱が殺されてから8年後には遂に宇都宮城主として復帰させた。
芳賀家の家督相続に当たっては、自らがかつて殺した高照の弟・芳賀高継を養子に迎えて後継者とした。
天正16年(1588年)に68歳で死去。