真岡城
ナビゲーションに移動
検索に移動
真岡城(もおかじょう)とは、栃木県真岡市台町4198にかつて存在した日本の城のことである。
概要[編集]
現在の真岡市街の中心部、行屋橋の北西側の台地に存在した日本の城である。
築城年代については不明だが、宇都宮氏の重臣である芳賀氏が居城としていた点と、芳賀氏の経歴などから恐らく平安時代末期の文治年間(1185年から1190年)の築城ではないかと推定される。芳賀氏はもともと清原氏であり、その祖は舎人親王の9代孫にあたる清原高澄。そして高澄の子・清原高重の時に花山天皇(当時は法皇)の怒りを買って寛和元年(985年)に下野国に流罪となり、同国の芳賀郡大内荘に居住した。高重から6代目の孫が清原高親で、記録では彼の代から芳賀姓を称しているため、彼が築城した可能性がある。
高親から4代目の孫である芳賀高俊の時代である鎌倉時代後期の永仁年間(1293年から1299年)に、清原村竹下に飛山城を築いて居城を移したとされる。しかしそれから270年後の安土桃山時代に芳賀高継が居城を真岡に戻して城下町も建設し、これが現在の真岡市の起源になったといわれている。しかし芳賀氏は慶長2年(1597年)、主家の宇都宮国綱が五奉行の浅野長政と対立したことから豊臣秀吉の怒りを買い改易されてしまうと、それに伴って没落した。この際に廃城になったと見られ、江戸時代には天領の支配拠点として真岡代官所が設置されている。
現在、城跡の主要部は真岡小学校の敷地となっているが、一部に城跡の遺構も存在する。また、城跡は現在は城山公園となっている。