大石神社 (赤穂市)

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大石神社(おおいしじんじゃ)とは、兵庫県赤穂市上仮屋129に存在する神社である。赤穂四十七士赤穂事件(赤穂義士)で有名な大石良雄(大石内蔵助)らを祀って建立された神社である。

大石神社(横浜市)、大石神社(弘前市)は大石良雄と無関係。

概要[編集]

境内には大石邸庭園、義士木像奉安殿、大石内蔵助銅像、宝物殿などがある。さらに外苑の2の丸から塩屋門に出る道沿いには片岡源五右衛門間瀬久太夫磯貝十郎左衛門大野九郎兵衛らの屋敷跡もあり、それらを示す石標も建立されている。神域は赤穂城の旧3の丸にあった大石良雄宅跡を中心として、面積はおよそ1万6000平方メートル、社殿のある一段高い所にはかつて家老藤井又左衛門の邸宅があったとされている。また大石神社の東入口である旧大石良雄邸の白壁の塀がつきあたるあたりから東に見える石塁の切れ目は元禄14年(1701年)4月19日、浅野氏が松の廊下事件で改易が決定した後に良雄が赤穂城の明け渡しを終えて城から退去したとされる清水門の跡であるとされる。当社はを連れて参拝できる神社である。義士宝物殿には赤穂城にいた「犬の受け取り証」も公開展示されている[1]。境内では、ミニホース平成19年(2007年)から飼育されている。

歴史[編集]

江戸時代には江戸幕府にはばかって大石良雄ら義士を表立って顕彰することはできなかった。明治になり城売却と建物の破壊により耕地として払い下げられ、洪水などもあり跡地は荒廃した。 花岳寺住持である仙珪らにより、大石良雄ら赤穂四十七士と萱野三平を祀る神社の建設が政府に申請された。

1900年明治33年)、「大石神社」として内蔵助邸跡に神社を創建することが政府から許可されたが、建築の募金が集まらず難航[2]大町桂月ら右翼や国粋主義者から反対もあった[3]1910年(明治43年)4月にようやく起工し、1912年大正元年)に社殿が竣工した。

太平洋戦争が終結すると、大石の主家で赤穂藩を治めた浅野長直浅野長友浅野長矩浅野氏3侯の神霊、そして江戸城松の廊下事件で浅野氏が改易された後に赤穂藩に入封した森氏の先祖である、織田信長に仕えて活躍した功臣として著名な森可成とその長男・森可隆、次男・森長可、3男・森蘭丸、4男・森坊丸、5男・森力丸、6男・森忠政ら森氏の7神が合祀された。ただし、赤穂藩主としての森氏は二代目の森長孝の時に臨済宗に改宗(花岳寺は曹洞宗)しているため合祀されていない[4]。しかし、森家の治世史料は神社拝殿の宝物殿に展示・公開されている(次項参照)。

境内[編集]

宝物殿[編集]

神社拝殿の左側にあり、大石良雄とその息子・主税こと大石良金が主君の浅野長矩から拝領した佩刀、良雄の書簡や絵画、その他の義士の愛刀や槍、消息に関する書簡、浅野氏の時代の千両箱酒樽などが収められており、一般に公開されている。

また別殿には、浅野氏の改易後に脇坂家預かりを経て、永井家に次いで赤穂藩に入封した森氏に関する様々な史料も集められており、収蔵品の中には森可成が織田信長に従って桶狭間の戦いに参加した際に着用したとされる甲冑、その次男である長可が信長に従って武田征伐に従軍した際に分捕ったとされる置筒、龍頭の兜、その実弟の忠政が豊臣秀吉朝鮮出兵の際に着用したとされる兜、徳川将軍家から拝領した銀製の小銃といった宝類が多く公開されている。

大石邸庭園[編集]

神門を入って右手にある庭園で、旧大石屋敷の庭園である。瓢箪池と呼ばれる泉水を中心に配され、老樹や巨大な石が見事に調和している。池中の出島にある盆栽松は大石良雄自らによる手植えと伝わっており、往時の面影を伝えている。

義士木像奉安殿[編集]

瓢箪池の北側に存在する。文化勲章受章者の平櫛田中が作った浅野長矩像、文化功労者である山崎朝雲が87歳の時に作った絶作といわれる大石良雄像など、現代で一流と伝わる彫刻家49名の作品による赤穂義士の木像が並べられている。木造のほかに討ち入り当夜に大石が使用した采配、呼子笛なども展示されている。建物の北側屋外にある大石内蔵助銅像は昭和46年(1971年12月14日、義士討ち入りから270年を記念して建立されたものであり、高さ2.12メートル、重さ500キロで、館内にある山崎朝雲が作った内蔵助の木像を模して、その弟子である綿引弘作山崎秀雄らによって製作されたものである。

アクセス[編集]

脚注[編集]

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  1. 脇坂家文書「城内犬之覚」
  2. 片山伯仙編「仙珪和尚日記抄」(花岳寺、1967年)
  3. 政教社「日本及日本人」(1909年)
  4. 『播州赤穂 台雲山花岳寺』より「境内案内」

関連項目[編集]