平櫛田中

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平櫛田中(ひらくしでんちゅう、1872年6月30日 - 1979年12月30日)は近代日本を代表する彫刻家である。

概要[編集]

1872年6月30日、岡山県後月郡西江原村(現・井原市)の田中家に生まれる[1]。1882年、平櫛家の養子となる。1893年、中谷省古に弟子入りし、木彫の手ほどきを受ける。1897年上京し、谷中の長安寺に寄宿し、高村光雲の門下生となる。1901年、日本美術協会展に出品した「童子歌君ヶ代」で銀牌を受けた。このころ、岡倉天心と出会う。1907年、東京勧業博覧会に「少女と人形」を出品し三等賞牌を授賞したものの、審査の不公平を理由に返却した。1914年日本美術院再興記念展覧会に「禾山笑」等を出品する。1937年帝国芸術院会員となる。1949年、東京芸術大学教授となる。1962年、文化勲章を受章。1969年井原市に田中館(現・井原市立田中美術館)が開館する。1979年12月30日、小平市自宅にて肺炎のため永眠。(107歳)

人物[編集]

木彫に使用する木は製作の2年前に用意すると語った。「先生は100歳を過ぎても、30年分を用意している」と彫刻仲間から言われた。自宅を建てたとき、大工から先生保管の木の中によい材があるから使わせてほしいと言われたとき、建材には絶対に使いたくないとして、それを断った[2]

岡倉天心[編集]

彫刻家たちが作品が売れないと岡倉天心に苦しさを訴えたとき、天心は「諸君は売れるようなものをお作りになるから売れません。売れないものをお作りなさい。そうすれば必ず売れます」と言った。このとき田中は、売れないものを作るのは雑作もない、自分の好きなものを作ればいいのだ、と感じた[3]。田中は「思い返すとわたくしは先生のこの言葉のために彫刻を作ってきたようなものだ」と語る。売れないものとは不完全なものである。「不完全な美」はすべてを表現しようとせず、見る者の想像力を喚起する豊かなものであるとする。

代表作[編集]

  • 「烏有先生」 - 製作年不詳。小平市平櫛田中彫刻美術館所蔵。
  • 「転生」 - 1920年、ブロンズ 高238.0cm。小平市平櫛田中彫刻美術館所蔵。
  • 「岡倉天心胸像」 - 1931年。東京美術学校(現東京芸術大学)に設置。
  • 「平安老母」 - 1936年。第23回院展に出品[4]。東京藝術大学大学美術館所蔵。
  • 「三井高福像」 - 1937年。総高112.0㎝。木彫彩色。東京芸術大学大学美術館所蔵。
  • 「五浦釣人」 - 1943年、ブロンズ。釣りにでかける岡倉天心。井原市立田中美術館所蔵。
  • 「鏡獅子」 - 1958年完成。22年の歳月をかけた6代目尾上菊五郎をモデルとした木彫彩色の大作。国立劇場のロビーに展示。高さ2mの木彫。国立近代美術館所蔵、国立劇場に永久貸与。
  • 「鏡獅子」 - 1965年、木彫彩色、高58.0cm。国立劇場展示の4分の1のスケール。58cm。小平市平櫛田中彫刻美術館所蔵。

美術館[編集]

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  1. 石原道博(1981)「百七歳平櫛田中 人と作品のプロフィール」茨城大学五浦美術文化研究所報8巻、pp.11-14
  2. 西田亨(1981)「平櫛田中先生宅訪問記」茨城大学五浦美術文化報 8 巻、pp.26 -27
  3. 平櫛田中(1973)『私の歩いてきた道』日本美術社
  4. 平櫛田中コレクション−つくる・みる・あつめる東京藝術大学大学美術館