大和郡山城

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大和郡山城(やまとこおりやまじょう)とは、現在の奈良県大和郡山市城内町にかつて存在した日本である。単に郡山城と呼ばれるのが一般的だが、広島県毛利氏居城であった吉田郡山城という同名の城があるため、区別するため大和郡山城と呼ばれている。

概要[編集]

戦国時代天正8年(1580年)、織田信長の家臣として大和の支配を認められた筒井順慶は、居城を筒井城から大和郡山城に移した。天正12年(1584年)に順慶は36歳の若さで死去し、養子定次が跡を継ぐが、天正13年(1585年)に豊臣秀吉の実弟である秀長が秀吉の命令で大和・和泉紀伊の3か国の太守に封じられたため、定次は伊賀上野城に移封となる。秀長は大和郡山城を居城として100万石を支配し、大規模な城郭改造や城下町の建設に努め、結果として郡山城は25万平方メートルに及ぶ巨大城郭に生まれ変わった。

天正19年(1591年)に秀長が死去した後は城主が頻繁に変わる時代となる。それが落ち着いたのは江戸時代中期の享保9年(1724年)、かつて江戸幕府第5代征夷大将軍徳川綱吉の下で側用人として権勢を振るった柳沢吉保の長男・吉里が15万石で入封したときである。ちなみに吉里にも綱吉の落胤とする逸話がある。以後、柳沢氏の支配で明治維新を迎えた。

明治時代前期に郡山城は破却されたが、石垣や堀のみはそのまま残され、当時の面影を現在に伝えている。石垣にはかつての都・平城京の羅城門の礎石、石塔、石仏など数百が積み込まれ、これは郡山城を大規模改造した秀長が奈良各地の寺院から集めたものとされる。奈良は当時、寺社勢力が強大であったことから、その勢力を抑えるために秀長が集めたものと見られている。

郡山城跡は現在、奈良県の史跡に指定され、北東隅の玄武廓には明治41年(1908年)に竣工した奈良県立旧奈良図書館を移したものがあり、現在は郡山城跡会館となっている。なお、会館前には松尾芭蕉門弟十哲のひとりとされる森川許六の句碑もある。

昭和55年(1980年)には築城400年を記念して、追手門や東隅櫓、多聞櫓などが復元されている。また、大和郡山藩主であった柳沢氏所蔵の書画や歴史史料などが柳沢文庫として公開されている。さらに本丸跡には明治13年(1880年)に創立された柳沢吉保を祭神とする柳沢神社もあり、拝殿入口の扁額には有栖川宮熾仁親王の筆によるものである。境内には創立の頃に植えられたが多く存在し、4月には「お城まつり」も行なわれて花見客で賑わっている。

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