加賀小松城

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加賀小松城(かがこまつじょう)とは、現在の石川県小松市丸の内町にかつて存在した日本である。

概要[編集]

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この城は現在の小松市の北西端にあった平城である。

安土桃山時代天正4年(1576年)に石山本願寺に属していた若林長門守の築城と伝えられている。天正8年(1580年)に織田信長の命令を受けた柴田勝家により加賀一向一揆が滅ぼされると、信長より村上義明能美郡6万6000石を与えられて小松城に入る。慶長2年(1597年)に義明は越後村上城に移り、慶長3年(1598年)に豊臣秀吉の命令により、それまで加賀松任城4万石を支配していた丹羽長重が8万石加増の12万石で小松に入ることになる。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、長重は西軍に属し、東軍に属した前田利長と争ったため(浅井畷の戦い)、戦後に徳川家康によって所領を没収されて改易となり、小松はそのまま利長に与えられ、利長は一族の前田長種を城主に任命した。長種が死去すると、その息子の前田正知が継承し、次いで前田孝貞が継承した。元和元年(1615年)に家康が発令した一国一城令によって、小松城は廃城となった。

寛永16年(1639年)、利長の跡を継いで加賀藩の第2代藩主となっていた前田利常隠居する際、利常は小松城に隠居することを江戸幕府に願い出て許された。利常は家臣の滝長兵衛に命じて小松城の本丸、2の丸、3の丸などを築いて城壁を修築し、堀を掘るなどして城を整備させ、寛永17年(1640年)に出来たばかりの小松城に入城した。ただし、このときの再建された小松城はかつてより小規模だったと見られている。

万治元年(1658年)に利常が死去すると、本来ならば一国一城令の特例措置によるものであったことから廃城するはずだったが、江戸幕府は利常の孫で第4代藩主となっていた前田綱紀に小松城をそのまま支配することを許し、以後前田氏は小松城に幕末まで城代や御城番を置いて守らせた。明治4年(1871年)に廃城となった。

現在の城跡には小松高校のグラウンドの一角に本丸の櫓台、堀跡がわずかに残っている。3の丸跡は芦城公園として整備されており、園内には利常の銅像や市民ギャラリーなどがある。なお、市内園町の来生寺の門は小松城の現在まで伝わる唯一の遺構とされ、城内にあった門を移建したものと伝わり、これは小松市の文化財に指定されている。

また、城の縄張は研究などによると梯川を塞き止めると水城になるような設計であったとされ、そのため小松浮城(こまつふじょう)とも称されたという。また、当時の周囲一帯には芦が繁茂していたとされていることから「芦城」(ろじょう)とも称されたという。かつて明智光秀がこの地が要衝で城は堅固と言わしめたほど、小松城は堅城だった模様である。

アクセス[編集]