ラングドン・ウォーナー
ラングドン・ウォーナー(Langdon Warner、1881年8月1日 – 1955年6月9日)はアメリカ合衆国の東洋美術に特化した考古学者で歴史学者である。ハーバード大学教授でフォッグ美術館のキュレーターである。スピルバーグ映画に登場する考古学者インディージョーンズのモデルと言われる。シルクロードを研究した。1927年にアメリカ芸術科学アカデミーのフェローに選出された。
概要[編集]
1903年にハーバード大学を卒業し、仏教美術と考古学を専門とした。卒業後はボストン美術館で岡倉天心の助手を務めた。大学では日本美術と中国美術の初期コースを教えた。1913年にスミソニアン協会はウォーナーをアジアに派遣し、数年を過ごしたが、戦争により中断した。帰国後は東洋美術史を講義し、ハーバード大学付属フォッグ美術館東洋部長となる。1922年にフォッグ美術館はウォーナーを中国に派遣した。1946年、米軍司令部(GHQ)の古美術管理の顧問として来日した。
中国におけるウォーナーの仕事は多くの論争を引き起こしている。ウォーナーが莫高窟を訪れたのは1924年であるが、敦煌壁画の一部を剥がして持ち去るなど、文化の破壊者という評価もある。現在、その壁画はハーバード大学にある。
ウォーナ伝説[編集]
顕彰碑[編集]
鎌倉駅西口「とんがり帽子の時計台」の傍らに戦争から歴史遺産を救ったラングドン・ウォーナーの碑がある。碑には、ウォーナーのレリーフがはめられ、碑文には「文化は戦争に優先する」と書かれている。また法隆寺の西の森には顕彰碑があって、そこには「奈良・京都を戦禍より救うために献身的に努力された」と記されている。彼には日本政府から勲二等瑞宝章が授与された。太平洋戦争が勃発すると、日本の三大古都の歴史遺産に戦禍が及ばぬよう訴え、芸術的歴史的建造物を空爆から救ったと伝説的にいわれている[1]。 ウォーナーの顕彰碑は表のとおり、全国6か所に建てられている。
No | 場所 | 目標物 | 建立年 | 建立 | 発起人 |
---|---|---|---|---|---|
1 | 生駒郡 | 法隆寺 | 1958年 | 五輪塔と記念碑 | 細川護立、黒田源治 |
2 | 桜井市 | 桜井公園 | 1959年 | 五輪塔と記念碑 | 中川伊太郎 |
3 | 京都市 | 霊山歴史館 | 1970年 | 胸像と碑文 | 日本文化財団 |
4 | 北茨城市 | 茨城大学五浦美術文化研究所 | 1970年 | 胸像と碑文 | ウォーナー博士功績顕彰会 |
5 | 会津若松市 | 勝常寺 | 1981年 | 記念碑 | 会津史談会会長・宮崎長八 |
6 | 鎌倉市 | 鎌倉駅前 | 1986年 | 記念碑 | ウォーナー博士の記念碑を建てる会 |
伝説の発端[編集]
京都奈良の文化財を爆撃から救ったのはウォーナーであると断定したのは1945年11月11日の朝日新聞記事であった[2]。記事には、日本の諸都市に爆撃が開始されようとするときに、ハーバード大学付属フォッグ美術館東洋部長のラングドン・ウォーナー氏が献身的な努力をしたと、ウォーナー恩人説を報道した。美術研究家でマッカーサー司令部文教部長のヘンダーソン中佐がその秘話を伝えたとしている[1]。 記事には、美術と歴史を尊重するアメリカの意志が、京都と奈良を「人類の宝」として世界のため、日本のために救ったとして、この計画を貫くために活躍の中心となったのは、開戦とともにアメリカに出来た『戦争地域における美術および歴史遺蹟の保護救済に関する委員会』であったと書かれている。アメリカ大審院判事ロバーツが委員長であったため、通称をロバーツ委員会とされている。 記事に美術評論家の矢代幸雄の談話が添えられていた。この記事は反響を呼び、ウォーナーが来日したとき(1946年、1956年)は、国賓並みの待遇を受けた。2回目の来日の時に、ウォーナー夫妻は時の吉田茂首相から箱根の別荘に招かれ、感謝の念を伝えられたという。
矢代はその後もウォーナーについて書いており「当時、ウォーナー自身がこのことを言われるのを嫌がったため、私としても嫌がるものを強いて聞くこともないと遠慮している間に亡くなってしまったとしている。矢代が話を最初に聞いたのは宮本商会の重役宮又一からで、話の元となるヘンダーソン中佐を司令部に訪ねて詳しく問いただし、公式許可を貰って朝日新聞に11月10日[3]に発表した[4]。
ウォーナーの反応[編集]
矢代幸雄によれば、ウォーナー自身は、「ウォーナーが古都を救った恩人説」を、事あるごとにきっぱりと否定し続けている。「それは、ただ噂だけであって、自分がどうこうしたのではない。アメリカ政府がマッカーサー司令官と密接に協議して行った政策である。」「合衆国の政策であって、私自身の責任ではありませんから、これは申さないでください」と語った[4]。日本では東洋的謙遜であると受け止められたため、事実経過を綿密に再検討しようとする動きはなかった。
空軍の機密文書[編集]
NHK BS1プレミアムで2017年2月11日「美術家たちの太平洋戦争~日本の文化財はこうして守られた~」が放送された。米国立公文書館の「陸軍文書M354-17A」だけでなく、米空軍が実際の空爆のために作成した地図「TOKYO,JAPAN INCENDIARY ZONE MAP」(INCENDIARY=焼夷弾)を大戦中の空軍の機密文書が数多く保管されているアラバマ州のマクスウェル空軍基地でNHK取材班は見い出した。空軍参謀部は日本における数千か所の爆撃標的を選定し、攻撃対象は赤、外す対象は緑で記載されている。中にカラーの地図があり、その緑色の部分は空爆を行わない場所となっていた。東京では皇居・東京駅・靖国神社・上野公園・東京大学・浅草公園、奈良では興福寺や法隆寺が含まれていた。皇居と東京駅は政治的理由で対象外となっていた。浅草寺のある「ASAKUSA PARK」、美術館や博物館が集まる「UENO PARK」(上野公園)、靖国神社などが攻撃目標から外されていたのは、空軍参謀部がウォーナーリストを参考に空爆回避地点を選定していた可能性を考えるべきであろう。 その頃、興福寺では阿修羅像など15体の仏像を囚人に運ばせ、吉野山の民家の蔵に隠した。法隆寺の釈迦三尊像・薬師如来像・救世観音像について佐伯定胤貫主は「寺からは出さず、決死で守る」との決意を固めていた。米国空襲により奈良駅は焼失したものの、リストに記載されていた場所はすべて無事であった。激しい空襲を受けた東京では58ヶ所が無事で、浅草寺は焼けたが、上野の博物館や東大図書館は被災しなかった。全国的には、リストに載っていた場所の8割が無事であった。
戦後賠償[編集]
米軍司令部(GHQ)に「美術記念物課」があり、古美術管理に対応していた。ウォーナーは、1946年、米軍司令部の「古美術管理顧問」として来日し、ウォーナーの孫弟子であるシャーマン・リーが古美術管理に当たった。ワシントンDCの「極東委員会」で日本の戦時賠償の議論では、中華民国国民政府は「中国の美術品360万点の被害に対応する賠償」を日本から取るべきと主張し、オランダとフィリピンがこの意見に賛同していた。マッカーサーは1948年5月31日の電報で「米軍司令部(GHQ)は、”日本の文化財を没収する”という米国国務省の提案に反対する」という意見陳述を行った。マッカーサーはこうしたやり方の戦時賠償は日本人の心を傷つけ、結果として占領政策を難しくすると書簡を送った。中国国民政府の提案は廃案となった。フリーア美術館のジェームス・コーラックはその時、「リーは感情を表さず『ようやく決定が下された』と言ったと伝える。シャーマン・リーは、その後「クリーブランド美術館館長」となり、日本美術品の収集に力を注いだ。
吉田守男の調査[編集]
吉田守男の調査によると、ウォーナーリストは米軍作成『陸軍動員便覧』の一部であり、M354-17Aのコードが付けられている。『民事ハンドブック 日本17A:文化施設』(ウォーナーリストの正式名)はロバーツ委員会で準備され、憲兵司令部で作成されたと記載されており、作成日は1945年5月と記載されている[1]。その作成目的は次の通りであった[5]。
戦場にいる文化財関係者の将校が利用するために、そして、保護すべき遺跡や記念碑の公式リストを彼らが作るのを手助けするために準備され、軍隊で配られた。吉田守男によれば、ウォーナーリストは文化財の保護のためではなく、略奪文化財の返還の目的であったとする。吉田守男はウォーナーリストが空襲と関りがなかった証拠として、米軍による爆撃により焼失した文化財は国宝293件、史蹟名勝天然記念物44件、重要美術品134件があり、合計471件に及ぶ。ウォーナーリスト記載の城の内、名古屋城、首里城、青葉城など8つの城が焼失し、リストにない彦根城、富山城、丸岡城は爆撃されなかったことを挙げている。ウォーナーリストは戦後に占領軍兵士が観光旅行するためのガイドブックとして役だったとする。
京都が爆撃されなかった理由[編集]
吉田守男は京都が爆撃されなかった理由を、原爆投下の候補地の一つであったからと説明する。1945年5月10日、11日の目標選定委員会の秘密会議がコロラド州のロスアラモス研究所のオッペンハイマー博士の執務室で行われた。原子爆弾の投下予定都市が選定され、京都・広島・横浜・小倉・新潟の五都市が挙げられた。新潟はその会議で目標から外された。選定基準は次の通りである[1]。
- (1)直径三マイルの円内に市街地が入るサイズであること。
- (2)爆風により効果的に破壊できること。
- (3)8月までに攻撃されないままであること予想されること。
ここで京都が選ばれた理由は、次の通りである。
- (1)100万人の人口がある大都市である。
- (2)戦時下で羅災工業が流れ込む軍事目標である。
- (3)市街地の広さが適切(東西2.5マイル、南北4マイル)で人口密集地が広い。
- (4)宗教的意義をもつ重要都市である(抗戦意欲の喪失)。
- (5)三方を山に囲まれた盆地である(爆風効果)。
- (6)知識人が多い(戦争終結への影響力)。
- (7)爆撃の被害がまだない(原子爆弾の効果検証を行いやすい)
1945年5月から初夏にかけて、原子爆弾開発と投下の責任者であったレスリー・グローブズ少将と陸軍長官ヘンリー・スチムソンとの間で京都への投下に対して激論が戦わされた。グローブズ少将が京都に固執した理由は、原爆の威力を測定するために十分な広さを持っている事を挙げ、京都の地理的特徴が最大の理由であった。 スチムソンは京都に原爆を落とすと、戦後に日本と和解することが長期間不可能となり、米国の戦後の歴史的地位に影響が及ぶという国際政治論であった。正々堂々の態度と人道主義を論拠とした[6]。陸軍戦略航空軍司令官のアーノルド大将は一貫してグローブズ少将に賛成であった。1945年6月14日には小倉、新潟、広島が目標となった。7月3日には京都が復活した。7月21日(投下の4日前)、陸軍長官特別顧問のハリソンはポツダム会談に随行していたスチムソンに電文を送り、京都投下の許可を求めたが、スチムソンがドイツから他d地に返信し、変更すべき要因はないとした。これにより原子爆弾投下の京都除外が決定した。 7月24日に京都の代わりとして、長崎が新たに提案された。地形により爆風が南北に拡散するため不向きであるとの反対意見があったが、ハンディ将軍が決定した。 スチムソンは京都除外を決定した3日後の日記で、トルーマン大統領と原爆投下計画について理由を話し、京都に原子爆弾を落とせば日本はロシアに近づくだろう、と進言した。京都が除外された理由は文化財ではなく、国際政治情勢であった。ただし、三発目以降としては京都の目標は温存されていた。
著書[編集]
- The Long Old Road in China (1926)
- The Craft of the Japanese Sculptor (1936)
- Buddhist Wall-Paintings: A Study of a Ninth-Century Grotto at Wan Fo Hsia (1938)
- The Enduring Art of Japan (1952)
- Japanese Sculpture of the Tempyo Period: Masterpieces of the Eighth Century (1959)
- Special Loan Exhibition of Carpets and Other Textiles from Asia Mino、Leopold Classic Library (2015/12/16)
- 劉学新(訳)・ 茂木雅博 (訳)『遙かなる敦煌への道』同成社 (2014/5/9)
関連項目[編集]
参考文献[編集]
- ↑ a b c d 吉田守男(2002)『日本の古都はなぜ空襲を免れたか』朝日新聞社
- ↑ 「京都奈良無傷の裏」朝日新聞、1945年11月11日
- ↑ 11月11日の間違いか
- ↑ a b 矢代幸雄(1971)「ウォーナーをめぐって 日本爆撃と文化財救済」茨城大学五浦美術文化研究所報
- ↑ M354-17A, cultural institutions, May 1945. Report No. 36-a(23), USSBS Index Section 6 (文書名:Records of the U.S. Strategic Bombing Survey = 米国戦略爆撃調査団文書 ; Entry 46, Security-Classified Intelligence Library. 1932-1947. 65 ft) (課係名等:Intelligence Branch ; Library and Target Data Division) (シリーズ名:Civil Affairs Handbooks: Army Service Forces manuals on Japan)
- ↑ ここで事前警告という科学者の人道主義に基づく意見は無視されている。