黒野藩

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黒野藩(くろのはん)とは、現在の岐阜県岐阜市黒野に存在したである[1]藩庁黒野城[1]藩主家は加藤氏慶長5年(1600年)から慶長15年(1610年)まで存在した。

歴史[編集]

加藤貞泰は豊臣秀吉織田信長に仕えていた頃からの古くからの家臣である加藤光泰の息子である[1]。光泰は譜代の家臣がいない豊臣政権下で重用されたが、文禄2年8月29日1593年9月24日)に死去した。この死は石田三成による毒殺とする説もあり、そのためか文禄4年(1595年)には秀吉の命令で甲斐府中24万石から美濃黒野4万石に減移封させられた。これは貞泰が当時若年であったとする説もあるが、これが石田三成への反感を貞泰へ抱かせたことは否めず、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属して尾張犬山城を守備したものの、すぐに東軍に寝返って井伊直政の指揮下に入り、美濃本巣郡本田に向かって美濃大垣城を守備していた西軍の軍勢と対峙した[1]。関ヶ原本戦終了後、徳川家康の命令で稲葉貞通と共に近江水口城長束正家を攻めたが、正家は攻める前に逃亡した。とはいえ、この戦功により貞泰は家康から本領安堵を受け、ここに黒野藩が立藩した[1]

貞泰は黒野城と城下町の建設、さらに慶長14年(1609年)に検地を実施し、翌年1月には楽市令を出している[1]。また、黒野藩の家老4人は全て加藤一族で抑え、藩の体制を早くに整備した(家臣の数は174人)[1]

慶長15年(1610年)7月15日伯耆米子藩に2万石を加増された上で移封され、ここに黒野藩は廃藩となった[1]

歴代藩主[編集]

加藤家[編集]

3万石 → 2万5000石。外様

  1. 貞泰(さだやす)【慶長5年 - 元和3年】

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h 『藩史大事典 第4巻 中部編II 東海』 木村礎藤野保村上直(共編)、雄山閣1989年。P72

参考文献[編集]