近江坂本城

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近江坂本城(おうみさかもとじょう)とは、現在の滋賀県大津市下坂本にあった日本である。戦国時代織田信長家臣明智光秀居城としたことで有名である。現在は城跡のみである。

概要[編集]

元亀2年(1571年)に織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ちした後、明智光秀は信長から近江西部に所領を与えられてはじめは宇佐山城を居城としたが、元亀3年(1572年)に琵琶湖に臨んだ当地に坂本城を築いて居城とした。この城は古記録に「その結構壮美なるには眼を愕かす」と評されるほどで、光秀はこの城で西近江路や坂本港などの抑えを担当する織田氏の重鎮として城主を務めた。天正6年(1578年)に光秀は丹波を平定して丹波亀山城主となったため、坂本城には光秀の娘婿である明智秀満が城代を務める。

天正10年(1582年6月2日6月21日)、明智光秀は主君・織田信長とその嫡男である織田信忠に対して謀反を起こし、本能寺の変で両者を討ち果たして一時的に天下人として君臨し、坂本城は一躍天下の城となる。しかし中国地方毛利輝元と対峙していた羽柴秀吉中国大返しにより引き返して来ると光秀は山崎の戦いに敗れて坂本城に逃れようとしたところを落ち武者狩りに襲われて6月13日7月2日)に殺害される。信長の居城である安土城を占領していた秀満は光秀の敗北を知ると安土城を放棄して坂本城に逃れようとしたが、途中で秀吉に味方した信長の側近・堀秀政に阻まれ、有名な「左馬助の湖水渡り」を行なって坂本城に到着する。しかし坂本城はやがて堀秀政に包囲され、既に敗北を悟った秀満は部下を逃がし、秀政に対して光秀の愛刀や書画などの天下の道具・名品を城もろとも焼失させることを惜しんで目録ごと引き渡した。そして6月15日、秀満は自らの妻子や光秀の妻子一族を殺した後、坂本城に火を放って自殺し、これにより近江坂本城は廃城となった。

現在は見るべき遺構は少なく、天台宗東南寺の前、小川のほとりに「坂本城址」と記された碑が建立されている。東南寺の境内には数百体の石仏を積み上げた首塚があり、坂本城落城の際に死去した明智氏の将士らを葬った場所であると伝わっている。東南寺は比叡山延暦寺の末寺で「戸津説法」の行事で有名だが、これは天台宗の開祖である最澄が始めた民衆教化のための説法で、毎年8月21日から5日間にわたって行なわれている。

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