李恢

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李 恢(り かい、? - 231年)は、中国後漢末期から三国時代武将政治家徳昂(とくこう)[1]益州建寧郡兪元県の出身[1]。子は李遺。甥は李球。『三国志』蜀志に伝がある。

生涯[編集]

最初は劉璋に仕えて郡の督郵の地位にあった。しかし親族が法を犯して連座により免職させかけられた際に同僚の董和の計らいにより免れて、州に推挙される。劉備の入蜀の際には劉備に帰順したが、この際に雒城において馬超の下に派遣されて、説得して味方につけるという大功を立てている。劉備の蜀平定後は功曹書佐主簿、次いで別駕従事に昇進した[1]

221年鄧方が死去したため、その後任として庲降都督に任命され、南中の総督を務めた。この際に使持節、交州刺史を兼任した。223年に劉備が崩御すると、南方の蛮族が反乱を起こし、李恢は昆明で敵兵に包囲されたが、この際に「軍の兵糧が底を尽いたので、故郷に戻ってお前たちと心をひとつにしたい」と言って油断させた上で打ち破ったという。この功績により、劉禅から安漢将軍に任命され、さらにその後も発生した反乱を鎮圧して有力者を成都に移住させて軍馬、金銀などを蜀に納めさせたので、蜀の軍費は豊かになり不自由しなくなったという。229年に交州が孫権によって支配下に置かれたので李恢の交州刺史としての地位は解任となり、建寧太守となって漢中に移り住んで、その2年後に没した[1]

三国志演義』では第60回に初登場。劉璋に劉備の入蜀を諫めるが聞き入れられない上に追い出されている。そのため劉璋を見限って劉備に帰順し、馬超の説得に赴き、説得に来たことを察した馬超に斬られかけるが、李恢は「父の仇を忘れたのか」と述べて馬超を諭し、劉備に帰順させた。劉備の死後は諸葛亮の北伐に参加しており、史実では死去しているはずの234年、最後の北伐にも登場している。

脚注[編集]

  1. a b c d 小出『三国志武将事典』P159

参考文献[編集]