張裔
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張 裔(ちょう えい、166年 - 230年)は、中国の後漢末期から三国時代にかけての蜀の武将・政治家。字は君嗣(くんし)[1]。子は張毣・張郁。
生涯[編集]
益州蜀郡成都県の出身[1]。最初、孝廉に推挙されて当時の蜀の君主である劉璋に仕える[1]。劉璋の使者として劉備の下に赴いた際、劉備と諸葛亮から見込まれたという逸話がある[2]。劉備の入蜀では徳陽県の陌下で張飛と戦うも敗れた[1]。劉備が蜀の君主になると巴郡太守・司金中郎将に任命され、農業器具と武器の製造を担当する[1]。
223年に劉備が崩御すると後継者の劉禅に仕え、益州南部で雍闓が反乱を起こして益州太守の正昂を殺害すると、後任の益州太守として派遣されるも雍闓によって捕縛され、雍闓の背後にいた孫権の下に身柄を移された[1]。後に鄧芝が孫権との関係を修復して同盟を成立させると、張裔は蜀への帰還が許された[1]。
諸葛亮の北伐が始まると留府長史に任命され、後に射声校尉[2]・輔漢将軍に任命された[1]。230年に死去。享年65。
『三国志演義』では偏将軍の地位にあり、劉備の皇帝即位に尽力した一人として登場する[1]。