高定
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高 定(こう てい、? - 225年)は、中国の後漢末期から三国時代にかけての蜀の武将。『華陽国志』では高定元とある。タイ族叟族の王である[1]。
生涯[編集]
益州越嶲郡(益州南部)の出身[1]。最初、蜀の新道県を包囲するが、李厳に敗れて敗走する[1]。223年に劉備が崩御すると雍闓が反乱を起こし、高定は朱褒と共に結託して反乱に参加し[1]、越嶲郡太守である焦璜を殺害した(『華陽国志』)。さらに雍闓と共に永昌郡を攻めるが、呂凱・王伉らに阻まれて果たせず、225年に諸葛亮の南征が始まると雍闓と内紛を起こして高定は部下に雍闓を殺させ、その上で諸葛亮率いる蜀軍と戦うが敗れる。陳寿の史書では以後の行方は不明とされているが[1]、『華陽国志』では捕縛されて処刑され、晒し首にされたとある。
『三国志演義』では第87回で初登場。蜀の越嶲郡太守で、孟獲や雍闓と協力して反乱を起こす。しかし部下の顎煥が捕縛されて諸葛亮の離間の計にはまったのを機に雍闓と対立し、雍闓を殺してその首を手土産に諸葛亮に帰順する。しかし諸葛亮に信用されなかったため、朱褒も殺してその首を手土産に降伏し、諸葛亮から功績を認められて益州南部3郡の統治を任されている[1]。以後は描かれていない。