美保関町
美保関町(みほのせきちょう)とは、島根県八束郡にかつて存在した町である。現在は松江市に編入されて消滅している。
概要[編集]
大正13年(1924年)に町制を施行したことにより、旧美保関町が成立する。昭和30年(1955年)4月にその旧美保関町に千酌村・片江村・森山村などが合併して新しい美保関町が成立した。
この町は島根県の東部、島根半島の東端を占める。島根町と旧松江市と接し、南は中海と中江の瀬戸を隔てて鳥取県境港市と接していた。北と東の日本海に面する海岸部一帯は大山隠岐国立公園に指定される景勝地である。
町名に「関」の名を有するように、この町の東部には天然の良港である美保関港が存在していた。現在でこそ沿岸漁業の小さい漁港に過ぎないが、かつては日本海西部においても有数の港であり、鎌倉時代には守護の佐々木氏に重要視され、室町時代には室町幕府の御料所として直接支配され、出雲の守護大名であった京極氏によって管理された。この港は日本海の西回り海運を支え、また隠岐への渡航地として重要視され、海関すなわち関所が設置されていたが、その関所からあがる関銭は莫大な金額に上って室町幕府の財政を支えることになった。後に応仁の乱で室町幕府が権力を失い、出雲が下剋上により戦国大名となった尼子氏の支配下に置かれたが、この尼子氏が山陰で急速に勢力を拡大した一因に応仁2年(1468年)に美保関港を支配下に置いてその関銭を自らが独占するようになったのが理由のひとつとして挙げられている。このように港のおかげで繁栄した美保関は、江戸時代に松江藩の支配下になると為替倉が置かれるようになり、また漁港としても繁栄することになった。恵比須様として漁民の信仰を集める事代主を祀る美保神社が港のすぐ西の山麓にあるため、美保神社の門前町としても繁栄を遂げた。このころは1日の出船入船が1000隻、置かれていた遊女の数は100人を数えるほどの賑わいを見せていたと伝わっている。
なお、元は三保関と書かれていたが、明治3年(1870年)に美保関と改められた。しかし明治時代になると文明開化で鉄道が発達し、さらに蒸気汽船や航路の発達など時代の流れにより、この港は次第にかつての重要性を失ってゆく。結局、時代に負けてこの地は急速に衰退してゆくことになった。そのため、美保関町は観光と漁業の旧町のような状態になる。とはいえ、かつて繁栄を手にしていた関係から観光的には日本海沿岸一帯に大山隠岐国立公園に含まれて多くの景勝地を有するほか、民謡で知られる関の五本松や恵比須様の美保神社、古刹の仏谷寺、雄大な展望が楽しめる高尾山、美保関隕石を展示したメテオプラザなど見どころは多い。平成2年(1990年)からは七類港の機能強化や広域アクセス道の整備、養殖・栽培漁業、水産物のブランド化なども行なわれている。
平成17年(2005年)3月31日、旧松江市・鹿島町・島根町・八雲村・玉湯町・宍道町・八束町と合併し、新松江市が発足したことにより、美保関町は廃止された。