織田秀敏
織田 秀敏 おだ ひでとし | |||||||||||||||||
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織田 秀敏(おだ ひでとし)は、戦国時代の武将。尾張国の戦国大名・織田氏の一族で家臣。織田信長の大叔父に当たる。信平(のぶひら)ともいわれる。
略歴[編集]
父は織田敏定。兄は織田信定。甥に織田信秀がいる。通称は七郎。官途は玄蕃允、玄蕃頭[1]。
天文21年(1552年)10月21日、大甥の信長から所領安堵を受けている[2]。以後は信秀、並びに平手政秀を失って孤立していた信長を大叔父として後見する立場にあったと推定されている[1]。
また、織田家の長老的な存在だったことから、織田家の同盟者である斎藤道三の取次も務めていたようで、天文22年(1553年)6月22日に道三から書状を送られているが[3]、そこには信秀の死後、信長の後継をめぐり弟の信勝をはじめとした織田一族の不和が相次いでおり、それを秀敏は嘆いているので、道三は急ぎ秀敏に調停するように、信長はまだ若年なので大叔父としての秀敏の苦労を察して丁重な文言で書状を送っていることが確認されている[1][4]。
永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦いの際、鷲津砦を守っており、今川義元の軍勢の動向を清州城にいる信長の下に送っていたという。今川軍とこの際に戦って、砦は陥落してこの際に戦死したとする説がある[4]。
また、天正2年(1574年)3月に信長の嫡男・信忠が秀敏の孫・津田愛増に対して「祖父玄蕃允跡職知行方幷被官・家来等」を安堵している。信忠がこのような安堵を行なっているということは、秀敏がこの頃に死去したので、孫の愛増にそれを継がせようとしたのではないかと見られている[4]。もし、この頃に死去したのであれば、恐らく80歳前後の高齢である。
本能寺の変で信長、信忠が死去した後、信長の次男で信忠の同母弟である信雄に仕えた老臣に織田玄蕃頭という人物がいることが確認されている。官途が秀敏と同じなので恐らく秀敏の一族と推定されるが、具体的な関係については不詳である[4]。
織田秀敏が登場する作品[編集]
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
- 岡田正人 『織田信長総合事典』 雄山閣出版、1999年。 。