日本社会主義青年同盟

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日本社会主義青年同盟(にほんしゃかいしゅぎせいねんどうめい、英語:Japan League of Socialist Youth)は、日本社会党系の青年組織。略称は社青同(しゃせいどう)、JLSY。機関紙は『青年の声』。

歴史[編集]

結成[編集]

1959年8月の社会党青年部第4回中央討論会で「青年同盟」結成のための基本的方向性が確認され[1]、同年10月の日本社会党第16回大会で「党の外郭団体として青年同盟を設ける」という部分を含む機構改革案が決定された。これを受けて社会党青年部などにより日本社会主義青年同盟準備委員会が結成され[2]、1960年10月15日の第1回全国大会で日本社会主義青年同盟が正式に結成された。社青同準備委員会は正式結成以前から「社青同」の旗を掲げて安保闘争三池闘争に参加していた。またこの闘争を経験した青年活動家が結成の中心になったため、社青同は「安保と三池から生れた」といわれる。

警備研究会の『わかりやすい極左・右翼・日本共産党用語集』によれば、安保・三池闘争における青年、学生の行動力に目を付けた社会党青年部が中心となって社青同が結成されたとされる[3]田代則春の『日本共産党の変遷と過激派集団の理論と実践』によれば、安保・三池闘争の中で、日本共産党系の青年組織である日本民主青年同盟(民青)に対抗するため、社会党青年部を母体に社青同が結成されたとされる[4]。当時社会党中央本部青年部副部長であった高見圭司は、「「社会党の場合,社会党青年部ではまずいのではないか。やはり民青のように大衆組織をつくるべきだ」という意見が指導部の中であったようです」と証言している[5]

60年代前半[編集]

1960年12月15日に下部組織として社青同全国学生班協議会が結成された[1]。全国学生班協議会結成直後の社青同内部には、江田三郎社会党書記長が提唱する構造改革論を支持する構造改革派(江田派)、向坂逸郎を理論的指導者とする社会主義協会の影響下にある協会派(向坂派)、学生班協議会や東京地本を拠点とする解放派、加入戦術によって三多摩宮城で影響力を有する第四インター派(国際主義派)が存在した[6][4]。社青同結成当初は構造改革派が執行部を掌握し、1961年11月の第2回大会で大衆化路線を決定した[1]。1964年2月の第4回大会で構造改革派は執行部から排除され、協会派を中心とする反主流派が執行部を掌握した。この大会で執行部原案が修正され、「改憲阻止・反合理化の基調」の決議が採択された。少数派となった構造改革派は1964年中に「社会主義青年協議会」を結成した[1]。また一部は「戦闘的構改論」を唱え、1969年に「主体と変革派」を結成した[7]

1964年11月の第5回大会で協会派と解放派の対立が顕在化し、翌1965年3月に解放派が「学生解放派宣言」を発表して分派を宣言した[6]。1966年9月3日の東京地本第7回大会は協会派と解放派の衝突で流会。この大会で協会派は議事運営の暴力的な妨害を行い、この挑発に乗った解放派は協会派に集団暴行を加え、協会派は百数十名の重軽傷者を出した(9・3事件)[8]。緊急中央委員会の決定で東京地本は一旦解散され、同年12月に協会派だけで再建された。解放派は再登録に伴う自己批判を拒否して社青同を脱退し[9]、解放派の東京地本が独立した。

60年代後半[編集]

社会主義協会は1967年6月の第8回全国総会で、理論活動を重視する向坂逸郎派(向坂派)と実践活動を重視する太田薫派(太田派)に分裂した。社会主義協会で主流派となった太田派は社青同の執行部も掌握したが、1969年9月の社青同第9回大会で向坂派・反戦派(解放派・第四インター派)に敗北した[4]。1969年9月の第9回大会では反戦青年委員会や社会党、総評ブロックの評価をめぐり、いわゆる「3つの見解」が対立した。「第1見解」の向坂派は社会党・総評の強化を主張し、反戦青年委員会や改憲阻止青年会議には批判的な立場を取った。「第2見解」の反戦派(解放派・第四インター派・主体と変革派)は社会党・総評の解体を主張した。「第3見解」の太田派は第4回大会で採択された「基調」の堅持を主張し、「基調」で示された改憲阻止青年会議の組織化を強調した[9]。1971年2月の第10回大会で向坂派は解放派、第四インター派を除名した[4]。以後は社会主義協会向坂派の影響力の強い組織となり、社青同向坂派、社青同協会派とも呼ばれるようになった。主体と変革派は大会をボイコットして社青同から離脱した[7]。太田派は大会の開催に反対し[9]、1971年5月に全国社青同再建協議会を結成、1973年2月に日本社会主義青年同盟全国協議会(略称:社青同全国協、通称:社青同太田派)に改称した。解放派は1971年9月に自派傘下の社青同(通称:社青同解放派/解放派社青同)を結成した。反戦派や太田派の別組織化で同盟員数は一時的に減少したが、その後急速に組織を拡大し、1973年暮の第12回全国大会で結成以来最大の同盟員数を記録した。この大会で綱領・規約が改正されるとともに「生命と権利のたたかい」の路線が提起された[9]

歴代中央執行委員長[編集]

国際組織[編集]

日本社会党社会民主党は社会民主主義政党の国際組織である社会主義インターナショナル(SI)、日本社会党青少年局・社会民主党青年部は社会主義インターナショナル系の国際社会主義青年同盟(IUSY)に加盟しているが、社青同は旧社会主義国の青年団体を中心とする世界民主青年連盟(WFDY)に加盟している。日本からは2007年時点で社青同、日本民主青年同盟(民青)、在日本朝鮮青年同盟(朝青)の3団体が世界民主青年連盟に加盟している[11]

社青同系の新左翼党派[編集]

社青同解放派
社青同構造改革派の分派
社会主義協会太田派の分派

脚注[編集]

  1. a b c d 社会問題研究会編『全学連各派』双葉社、1969年、134頁
  2. 社会主義青年同盟をつくろう(1960) 労働者運動資料室
  3. 警備研究会『わかりやすい極左・右翼・日本共産党用語集〔四訂〕』立花書房、2012年、149頁
  4. a b c d 田代則春『日本共産党の変遷と過激派集団の理論と実践』立花書房、1985年、136-137頁
  5. 高見圭司「証言:戦後社会党・総評史 日本社会党青年部再考 : 『NO! 9条改憲・人権破壊』(明石書店,2007年)をもとに : 高見圭司氏に聞く(上)PDF」『大原社会問題研究所雑誌』680号、2015年6月
  6. a b 社会問題研究会編『全学連各派』双葉社、1969年、100頁、133頁
  7. a b 田代則春『日本共産党の変遷と過激派集団の理論と実践』立花書房、1985年、139-140頁
  8. 織田進「社青同批判」、日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)中央政治局編『社会党・社青同・協会派批判』新時代社(国際革命文庫)、1975年、91頁
  9. a b c d 社青同の歴史(1960~1988) 日本社会主義青年同盟北海道地区本部
  10. ニュースペーパー2009年2月号 平和フォーラム
  11. STRUCTURE World Federation of Democratic Youth

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

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