石橋政嗣

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石橋 政嗣(いしばし まさし、大正13年(1924年10月6日 - 令和元年(2019年12月9日)は、日本政治家全駐労出身。日本社会党書記長・副委員長・委員長を歴任した。台湾出身。

来歴[編集]

日本が統治していた時代の台湾で生まれる。昭和16年(1941年)に台湾の台北経済専門学校を卒業する。その後、進駐軍労働者、全日本進駐軍要員労働組合(全駐労)佐世保支部書記長(1947年)、長崎県労働組合評議会(長崎県労評)議長(1953年)、長崎県議員を経て、昭和30年(1955年)の衆議院議員選挙に左派社会党公認で旧長崎2区から初当選を果たし、以後12回連続当選を果たした。昭和35年(1960年)に日米安全保障条約改定をめぐる安保闘争並びに安保国会において、日本社会党安保5人男の1人に数えられ、岸信介内閣総理大臣を厳しく追及した。その後、旧社会党の外交防衛委員長、総務局長、国際局長、昭和45年(1970年)書記長(7年間)、昭和57年(1982年)副委員長(同年12月まで)と要職を歴任し、昭和58年(1983年)に飛鳥田一雄に代わって第9代の旧社会党の委員長に就任した。

石橋はこれまでの理想論を掲げた委員長と異なり、現実政治を重視したニュー社会党路線を推進する。具体的には党員の拡大、原発政策や対韓国政策の見直しなどであり、これらに取り組むことで自民党から与党の座を奪って旧社会党を与党に脱皮させるつもりだった。特に安全保障分野では昭和58年(1983年)に持論の非武装中立をめぐり、当時の中曽根康弘内閣総理大臣と国会で論戦を繰り広げた。

昭和61年(1986年)に旧社会党の第50回定期大会の続開大会で、マルクス・レーニン主義と訣別する新しい党の綱領である「新宣言」を採択する。だが、同年に行なわれた衆参同日選挙(第38回衆議院議員総選挙)で旧社会党は敗れ、その責任を取って石橋は委員長を辞任し、後任には土井たか子が就任した。昭和57年(1987年)から平成4年(1992年憲法擁護国民連合議長。

昭和63年(1988年)には訪韓し、盧泰愚大統領と会談した。平成2年(1990年)の第39回衆議院議員総選挙には出馬せず、政界を引退した。平成8年(1996年)10月、党名の変更や地元で民主党に鞍替えした代議士を無条件に支持するのを見て、社民党長崎県支部に離党届を提出[1]

著書に「非武装中立論」などがある。

令和元年(2019年)12月9日、老衰のため死去した。95歳没。

著書[編集]

  • 『非武装中立論』日本社会党機関紙局、1980年。復刻版は明石書店、2006年9月、271ページ。ISBN 4-7503-2398-5
  • 『石橋が叩く―政界四十年、社会党へ最後の叱咤』ネスコ、1991年。ISBN 4890368256
  • 『「五五年体制」内側からの証言―石橋政嗣回想録』田畑書店、1999年。ISBN 480380298X

出典[編集]

  1. 冨森叡児『素顔の宰相――日本を動かした政治家83人』朝日ソノラマ、2000年、227頁

外部リンク[編集]