犬山殿
犬山殿(いぬやまどの、生没年不詳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。織田信秀の娘で信長の姉。
生涯[編集]
父は織田信秀。母は不詳[1]。『保田文書』では「信長の姉」としている。
名は不明で、犬山殿とは彼女が嫁いだ織田信清が尾張国犬山城主であったことから呼ばれていた通称である。
晩年の信秀は斎藤道三とは和睦したものの、今川義元の圧力に押されており、さらに国内では一族の内訌が相次いでいた。天文18年(1549年)1月には信秀の弟・織田信康の子である信清が信秀の所領である柏井に侵攻して公然と反旗を翻したことから、信秀は信清と戦って勝利している[1](尾州錯乱)。
天文20年(1551年)に信秀が死去し信長が跡を継ぐと、信長は信清と和睦することを決断し、その条件として自分の姉である犬山殿を嫁がせた。つまり、いとこ同士の政略結婚であった。これにより信長と信清は連携し、永禄元年(1558年)の浮野の戦いでは信清は信長に味方して援軍を派遣し、これにより岩倉織田家に勝利している。ところが、永禄4年(1561年)に信長の美濃攻めに協力して従軍していた信清の弟・広良が十四条の戦いで戦死したのを契機に信長と信清は対立関係となり、永禄7年(1564年)に信長に攻められた信清は犬山城を追われて甲斐の武田信玄の下に逃れた[1]。
妻の犬山殿はどうなったかは不明だが、信長の姉だったことから殺されておらず、恐らく弟に庇護されたものと推定される。本能寺の変で信長が死去すると、清州会議を経て尾張国主となった信長の次男・信雄に庇護されており、『織田信雄分限帳』では180貫文を弥勒寺郷に与えられていた、と記述があり、信雄から化粧料を受け取っていたことが確認できる。没年、墓所、法名などはいずれも不明である[1]。
犬山殿には信清との間に娘があったようで(つまり信長の姪)、信長は天正3年(1575年)1月11日に美濃の福光郷の段銭50貫文を与えている(『南陽堂楠林文書』)。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
- 岡田正人 『織田信長総合事典』 雄山閣出版、1999年。 。