十四条の戦い
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十四条の戦い | |
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戦争: 十四条の戦い | |
年月日: 永禄4年5月23日(1561年7月6日) | |
場所: 日本・美濃国・十四条(現在の岐阜県本巣郡真正町) | |
結果: 斎藤軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
織田氏 | 斎藤氏 |
指揮官 | |
織田信長 織田広良 |
斎藤龍興 |
戦力 | |
不詳 | 不詳 |
損害 | |
不詳 織田広良が戦死 |
不詳 |
十四条の戦い(じゅうしじょうのたたかい)とは、永禄4年(1561年)5月23日に発生した織田信長軍と斎藤龍興軍の戦いである。
概要[編集]
永禄4年(1561年)5月11日に信長を苦しめた斎藤義龍が急死し、数え年でわずか14歳の嫡子・龍興が後継した。これを見た信長は好機到来とばかりに5月13日に美濃に向けて出陣。翌5月14日に森部の戦いにおいて長井利房、日比野清実率いる斎藤軍を破り、両大将を敗死させた。
信長はこの勝利により、墨俣一帯を手に入れた。しかし、墨俣を奪われれば居城の稲葉山城が危うくなると見た斎藤方は、龍興自らが総大将として5月23日に出陣することになった。ただ、当時14歳であり、さらに言えば恐らく初陣だったと考えられる龍興が自ら指揮をとったとは考えにくく、美濃三人衆か親族の長井道利あたりが実際の指揮をとっていたのではないかと推定される。
斎藤軍は稲葉山城の西にある十四条に陣を布いて迎撃態勢を整えた。これに対して信長は墨俣に砦を築き、その上で軍を率いて斎藤軍と激突した。この十四条における両軍の兵力は不明だが、斎藤軍はここで敗れれば後は籠城するしかない追い詰められた軍勢、それに対して織田軍は先の森部では勝利したものの、ほとんど連戦続きの上に地の利は敵方にあったためか、ここで織田軍は敗れて信長の従弟・織田広良が戦死した。信長はやむなく西軽海まで撤退した。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
- 『総見記』