董卓

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董 卓(とう たく、? - 初平3年4月23日192年5月22日))は、中国後漢末期の武将政治家。字は仲穎(ちゅうえい)[1]。父は董君雅(『英雄記』)。母は池陽君。兄に董擢(『英雄記』)、弟に董旻。男子数名(『三国志』魏志「司馬朗伝」によると、司馬朗と同年齢の早世した男子がおり、『英雄記』によると、董卓の側室の産んだ乳飲子が列侯に取り立てられている)と娘(牛輔の妻)がいる。甥(兄の子)に董璜。孫娘に董白(『英雄記』)。

後漢末期の騒乱の中で武将として頭角を現す。霊帝没後、大将軍何進が出した宦官誅滅の命令に応じて洛陽に向かうが、その途上で少帝劉協を保護し、さらに宦官・何進共に滅んだため、一躍王朝の政権を握る実力者となった。少帝を廃して劉協を献帝として擁立し、強大な軍事力を背景にして政治を思うが儘に動かしたが、各地の諸侯が反発して連合軍を結成して挙兵する(陽人の戦い)。董卓は洛陽を焼き捨てて長安への遷都を強行し、さらに長安で専横を極めたが、それに反発した王允呂布らによって殺害された[2]

生涯[編集]

頭角を現す[編集]

涼州隴西郡臨洮県(現在の甘粛省定西市臨洮県)の出身[1]

董卓は生まれつき武芸に秀でて類稀なる腕力を持ち、2つの弓袋を身に着けて馬を疾走させながら左右から弓を射た、と言われている[3]。また董卓の出身地は羌族という異民族が侵入を繰り返す地域で、そのため涼州兵は精強揃いで後に董卓が政権を握る際の大いなる軍事力となる[3]。董卓は「若い頃から任侠を好み、羌族の地方を放浪したことがあり、羌族の有力者と結びついていた。後に郷里に戻って農耕生活をしていたが、有力者が自分の下に訪れると、董卓は自宅に連れ帰り、耕牛を殺して宴会でもてなした。羌族の有力者たちはこうした厚意に感じ入り、国に帰ると互いに集めた家畜1000頭余りを董卓に贈った」とある(『董卓伝』)[4]。つまり董卓は本来なら漢族の敵である異民族と自ら手を結んでいたというのである。また後年に伝わる暴君ではなく、むしろ任侠に溢れた好青年の印象がある。

184年黄巾の乱が起こり、後漢は大混乱となる[4]。そんな中で涼州では漢人豪族辺章韓遂が涼州系の羌族と手を結んで反乱を起こした[4]。この反乱は185年になると羌族と縁が深い馬騰までが加わり長安を脅かすようになるが、皇甫嵩により平定される[4]。この時、反乱に応じた羌族の大半が董卓に降るが、董卓は羌族を自分の軍兵として編入した[4]。このため董卓の軍は極めて強力な精鋭揃いになり、その強大な兵力を恐れた霊帝は皇甫嵩に軍隊を引き渡すように2度に渡り命令を出したが、董卓は応じなかった[4]

この後、涼州の平定軍を率いた司空張温に招聘されて従軍する[5]。この際に張温軍に従軍していた孫堅と初めて会うが、董卓は遅参したり傲慢な態度を取ったりしたため、孫堅から斬るように主張されて張温から宥められたという[5]

政権奪取[編集]

この頃、後漢王朝は霊帝、宦官外戚等により腐敗していた。189年、霊帝が崩御すると次の皇位を巡り何進が推す劉弁(少帝)と宦官が推す劉協による継承争いが起こる。何進はこの機に乗じて宦官を殲滅するため、董卓をはじめ丁原王匡橋瑁ら諸侯に兵を率いて洛陽に集結するよう命令を出した。董卓はこれに応じて洛陽に向かったが、何進は宦官により殺害された。何進が殺害された事で袁紹により宦官は皆殺しにされたが、その混乱の中で洛陽から追われて流浪していた少帝と劉協を董卓が保護した。そして董卓は2人を奉じて洛陽へ入り、何進の軍勢を自分の軍に吸収し、さらに丁原とも対立して丁原の部下だった呂布を寝返らせてその軍勢も吸収。これにより相当数の兵力を手に入れた董卓は武力を背景にして政権を握った。

董卓は少帝の生母である何皇太后が政権掌握の障害になると考え、少帝を廃して何皇太后を毒殺する。後継者には少帝の異母弟である劉協を献帝として擁立した。こうして、董卓の障害になる存在は中央で皆無となり、董卓の政権は確立した。

暴政[編集]

董卓の専制に対し、袁紹を盟主にして諸侯が連合軍を結成して洛陽に攻め寄せた。この連合軍の結成で擁立されることを恐れて先帝の劉弁を弑殺する。さらに快進撃を続ける孫堅に対して部下の李傕を派遣して官位任官を条件に懐柔しようとしたが失敗[6]。また軍を率いて孫堅を迎撃した郭汜が大谷関で敗れるなど、旗色は悪かった[7]

190年2月、董卓は連合軍の勢威を恐れて長安への遷都を強行する。この時、董卓は洛陽の富豪の財産を理由なく手当たり次第で尽く没収した。次に洛陽近郊にある後漢の歴代皇帝や豪族の陵墓を暴き、副葬されている宝物を尽く奪った。その上で洛陽に放火して焼き払った。この火で洛陽の200里四方が火の海となり、焼け野原になった。200里内の建物は尽く焼け尽し、鶏や犬の姿すらなかった[8]

長安への遷都強行も悲劇を生んだ。洛陽から長安は距離にして現在だと287キロだが、これは道路が整備された上でのもので、当時の碌に道路整備もなされず、山や谷、河などがあることから距離は約800キロあったのではないかと推測される。その長距離を洛陽の市民は董卓軍に追い立てられて歩かされることを強要された。寝る場所も食料も満足に与えられなかった。そのため市民は飢えに苦しみ、時には追い立てる董卓軍の略奪にあい、市民の屍が道を埋め尽くした[9]

長安に移った後も、董卓の暴政は留まることを知らなかった。むしろ洛陽の時より酷くなった。『後漢書』によると、

  • 董卓は長安城郊外の郿に砦を築いて住んだが、その砦の高さは長安の城壁と高さは同じで、周辺から取り立てた30年分の穀物を蓄えた。
  • 董卓の出す法令は過酷で、愛憎により刑罰を乱用した。そのため人々が互いに誣告し合い、冤罪で死ぬ者は四桁に上った。民衆は悲鳴を上げたが、表だって批判はできず、道路で目くばせし、やっと政治への非難を通じあった。
  • 巡察に出る董卓を見送るため、公卿たちがそろって横門の外で開かれた送別の宴に出席した。董卓はあらかじめ、会場に幔幕を張り巡らし、準備を整えていた。酒宴となると、反乱を起こした北地郡の降伏者数百人を中へ引き入れ、席上、まず彼らの舌を切り取った。さらに手足を切り、眼をくり抜いたり、それを大鍋で煮た。まだ死にきれない者が盃や卓の間に倒れて転げ回って苦しんだ。集まった人々はみな慄然とし、手に持った箸を取り落とすほどであった。董卓は平然として酒を飲み、料理を平らげた。
  • 董卓は銅製の人物像、鐘とその台座を尽く叩き壊した。さらには五銖銭を潰して改めて小銭を鋳造したので、大きさは五分、模様はなく、穴は開いておらず、囲りに線をつけることもせず、やすりをかけて磨くこともできない、粗悪品であった。その結果、貨幣価値は暴落し、貨銭は流通しなくなった。

英雄記』によると、

  • 董卓の側室の子で、まだ歩けない赤子までみな、侯に取り立てられ、侯の印である黄金の印と紫の綬は玩具として与えられた。十五歳にもならない孫娘に、蝟陽君として領地が与えられた。董卓の住む郿城の東に縦横二丈余り、高さ五、六尺の壇を築き、金の華飾りと、青い蓋の付いた車に孫娘を乗せ、多くの高官たちに命じて、正装させて先頭役や供をさせた。

魏書』によると、

  • 董卓は部下に命じ、官吏、民衆のうち、親不孝な子、不忠な臣、清廉でない官吏、従順でない弟をリストアップさせ、これに該当する者があれば、全てその身は死刑に処し、財産を没収することにした。その結果、愛憎によって互いに訴えを起こし、民衆の多くが冤罪によって殺された。

こうして董卓の暴政が長安で展開され、怨嗟の声は満ち満ちた。

最期[編集]

董卓は自分が怨嗟を買っている事は承知していたため、常に護衛として養子の呂布を連れて歩いた[10]。ある時、些細な事で呂布に対して激怒し、小型の戟で斬り付けた。呂布は咄嗟に避けて事なきを得たが、これを機に両者の仲に亀裂が走った[10]。また呂布は董卓の侍女と密通していたため、これが露見することを恐れていた[10]

董卓の暴政を恨んでいた司徒王允は、同郷の呂布を抱き込んで董卓の暗殺を計画した[10]。192年4月、董卓は呂布により暗殺された[11]

死後、董卓の屍が長安で晒されたが、肥満体であったため脂肪から流れ出て地面が赤く染まった[12]。見張りの役人が日が暮れると、大きな灯心をつくり、屍の臍の中に火を置いて火を付けた。するとその火は朝まで消えず、何日も燃え続けた[12]

また、郿城は董卓の死去で呂布らに接収され、そこにいた董卓一族は皆殺しにされた。城内には2、3万斤の金、8、9万斤の銀、真珠と玉、錦と綾絹、その他珍品がうず高く積まれており、正確にどれだけあるのか、誰も見当もつかなかったという[12]

人物像[編集]

董卓は『三国志』を代表する悪役で、三国志関連の小説、漫画では常に悪役として描かれている。魔王、奸雄と評されることもある。後漢が滅んだのは220年だが、事実上滅亡したのは董卓の時代だとされている。董卓の時代を董卓の乱と称することさえある。

小説『三国志演義』でも史実同様に悪役として描かれている。ただ最後に呂布に暗殺される際に登場する美女の貂蝉は架空の人物である。

脚注[編集]

  1. a b 伴野朗『英傑たちの三国志』、P225
  2. 『三国志武将34選』56頁
  3. a b 『三国志武将34選』57頁
  4. a b c d e f 『三国志武将34選』58頁
  5. a b 伴野朗『英傑たちの三国志』、P87
  6. 伴野朗『英傑たちの三国志』、P89
  7. 伴野朗『英傑たちの三国志』、P90
  8. 「卓の兵、洛陽城の外面百里を焼く。また自ら兵を将(ひき)いて南北の宮及び宗廟、府庫、民家を焼き、城内、掃地てん尽す、罪悪をもてその財政を没収す。無辜にして死する者、あげて計(かぞ)うべからず」(『後漢書』)。
  9. 「ここにおいて、悉く洛陽の人数百万口を長安に徙す。歩騎駆蹙し、更いにあい悼惜し、飢餓し、寇略せられ、積尸、路に盈つ」(『後漢書』董卓伝)。ただし市民数百万は誇張と思われ、後漢書では洛陽と河南尹の戸数を20万8000余、人口101万余としている。
  10. a b c d 伴野朗『英傑たちの三国志』、P231
  11. 伴野朗『英傑たちの三国志』、P229
  12. a b c 伴野朗『英傑たちの三国志』、P230

参考文献[編集]