司馬朗
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司馬 朗(しば ろう、171年 - 217年)は、中国の後漢時代末期の政治家。字は伯達(はくたつ)[1]。司馬防の長子。司馬懿・司馬孚・司馬馗・司馬恂・司馬進・司馬通・司馬敏らの長兄。子に司馬遺。養子に司馬望。族兄に司馬芝。
生涯[編集]
司隷河内郡温県の出身[1]。12歳の時に経書の試験を受けて童子郎となる[1]。董卓が政権を掌握した際、戦乱を避けるため父の命令で郷里に帰って一族の世話を見た。22歳の時に曹操に召されて県令、丞相主簿、兗州刺史を歴任した[1]。217年、孫権征伐のため夏侯惇らと共に従軍した際、軍内に疫病が流行して司馬朗は患者の兵士らに薬を分け与えて巡視を行なったため、自分も疫病に倒れて死去した[1]。享年47。
非常に度量が大きい人物で、友人の崔琰が弟の司馬懿の才能が自分より上と評価した際は笑って認めたと言われ、また善政を敷いて周囲から大変慕われたという。
『三国志演義』では司馬懿の兄として名前のみ登場する。