滝大吉
滝 大吉 たき だいきち | |||||||||||||||||||||||||||
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滝 大吉(たき だいきち)は、建築界の創成期に活躍した建築家。現在の大分県速見郡日出町出身。工手学校(現工学院大学)造家学科の教員も務めた。従弟である音楽家の瀧廉太郎のよき理解者として、東京高等師範学校附属音楽学校入学を支援したことでも知られる。
生涯[編集]
経歴[編集]
文久元年(1861年)、豊後国速見郡日出城下に生まれる。祖父は日出藩家老・瀧吉惇(通称は瀧平之進)、父は同藩士・瀧吉彰。
明治16年(1883年)、工部大学校造家学科を卒業。その後、警視庁御用掛となる。明治17年(1884年)、太政官会計局勤務となり、ジョサイア・コンドルの助手となる。明治19年(1886年)、河合浩蔵らと造家学会を設立。造家学会第1回規則を河合浩蔵と共に創定、創立発起人になる。同年、臨時建築局二等技手として官庁集中計画に携わる。明治20年(1887年)、大阪の帝国工業会社に入り、建築部長となる。明治21年(1888年)、神戸に明治工業会社を設立し、建築部長となる。明治22年(1889年)、大阪で土木建築工事鑑定所(後に工学士滝大吉建築事務所)を開設する(日本人建築家による3番目の設計事務所)。また斎藤賢治と工業夜学校を開く(この講義をもとに建築学講義録を発行する)。
明治23年(1890年)、明治工業会社相談役となる。明治24年(1891年)、陸軍省に入り、陸軍技師となる。陸軍建築法改訂に従事。明治26年(1893年)、東京砲兵工廠御用掛勤務となる。明治27年(1894年)、朝鮮国や清に派遣される(明治29年(1896年)帰国)。
明治28年(1895年)、臨時陸軍検疫事務官兼検疫部建築課長となる。清国威海衛に出張し、臨時兵舎、病舎などを築造する。その後、臨時建築部主任技師となり、陸軍の6師団増設に伴う日本全国の兵営工事を監督する。明治30年(1897年)、イギリスやフランス、オランダ所領植民地の視察調査をする。明治32年(1899年)、台湾・北京・天津などの兵営築造を行った(明治34年(1901年)まで)。
廉太郎との絆、そして死[編集]
従弟の滝廉太郎とは17歳の歳の差があるが、大吉は良き理解者であった。日頃から音楽が大好きな廉太郎は音楽学校への入学を志していたが、昔気質な父親の滝吉弘はそれを許さなかった。大吉は廉太郎の気持ちを理解して熱心に吉弘の説得にあたり、遂に吉弘が折れて廉太郎の入学が実現した。後世に天才音楽家として廉太郎が名を成したのは、この大吉があってのことであり、廉太郎は兄のように大吉を慕い、また大吉も廉太郎の良き理解者として2人は終生厚い親交で結ばれていた[1]。
その廉太郎が作曲家としての勉強をするためにドイツに留学していた際、肺結核に倒れて日本政府の命令で帰国療養が命じられる。明治35年(1902年)10月に日本に帰国した廉太郎は東京にいる大吉の下で療養生活を送るようになり、大吉は日頃から手厚く世話をしていた[2]。
ところが、11月21日に大吉は突如として脳溢血で倒れ、わずか2日後の11月23日に急死した[2]。享年41(満40歳)。墓所は青山霊園1-イ-21-15の自ら設計した納骨堂形式のものとされる。
廉太郎はやむなく故郷の大分県に帰って療養したが[2]、理解者である大吉の急死というショックもあってか、わずか8か月後に後を追うように亡くなっている。
栄典[編集]
主な作品[編集]
- 参謀本部庁舎(1899年、現存しない)
- 第七師団旭川偕行社(1902年、現 中原悌二郎記念旭川市彫刻美術館、国の重要文化財)
- 東京府南豊島郡落合村火葬場(1883年)
- 中央諸官庁計画に参加(1886年)
- 富山議事堂(1887年)
- 東京砲兵工廠(1893年)
- 各地の検疫所(1895年)
- 清国·朝鮮·台湾および国内の兵営施設(1899-1901年)
著作[編集]
- 『建築講義録』全3巻 私家版1889(復刻建築書院 1898)
- 『建築工事設計便覧』大泉龍之輔編 滝大吉·野村一郎校閲 明和書院 1897
参考文献[編集]
- 『建築雑誌』第192號、造家学会、1902年。
- 『近代日本の異色建築家』近江栄・藤森照信編、朝日新聞社、1984年。
- 三橋四郎「故工学士 滝大吉氏の伝」『建築雑誌』192 1902年12月号
- 堀口甚吉「滝大吉氏の建築家としての業績 学会論文報告集」号外1965年10月号
- 堀勇良「奇傑として豪壮に生きた滝大吉」『近代日本の異色建築家』朝日新聞社、1984年
- 「滝大吉」『日出町誌 資料編』大分県速見郡日出町役場 1986年
- 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]