幸田延
幸田 延(こうだ のぶ、英:Nobu Koda、明治3年3月19日(1870年4月19日) - 昭和21年(1946年)6月14日)は、明治から昭和にかけて活躍した音楽教育者、バイオリニスト、ピアニストである。東京音楽学校教授。日本人として始めてソナタ形式による楽曲を作った。日本で最初の(西洋クラシック音楽の)作曲家。萩谷由喜子によれば、日本で最初のピアニストとされる。
親族[編集]
兄は作家の幸田露伴、探検家の郡司成忠であり、弟の幸田成友は歴史学者であった。日本で最初のバイオリニスト[注 1]とされる安藤幸は6歳下の妹である。
作家の幸田文は姪。作家の青木玉は大姪。
経歴[編集]
- 1870年4月19日(明治3年3月19日)、東京下谷仲御徒町に生まれる。父・幸田成延は江戸幕府の表坊主であった。母の猷は和歌や和楽に堪能であり、幸田延の入学前から母の手ほどきで長唄を始める[1]。
- 1876年(明治9年)、御茶ノ水の東京女子師範附属小学校(お茶の水の師範附属小学校、現お茶の水女子大学附属小学校)に入学。杵屋六翁の弟子の杵屋えつのもと長唄に入門する。学校の帰りには山勢松韻に師事し、山田流筝曲の稽古にも通った。
- 1881年(明治14年)、東京女子師範学校付属小学校で実験的に行われていた唱歌教育で、お雇い外国人メーソンに才能を見だされて、毎週土曜日の午後にメーソンと中村専からピアノを習いはじめた[1][2]。「此の子は音楽の才があるから個人教授をしたい」と言われたという。
- 1882年(明治15年)、メーソンの勧めで音楽取調掛に伝習生として入学。音楽取調掛伝習生規則が改正され、修業年限は4ヵ年となった。学科はこれまでの唱歌・洋琴・風琴・筝・胡弓に加えて実技のほかに修身・和声学・音楽論・音楽史・音楽教授法が教授された。ピアノを瓜生繁子、バイオリンを多久隋、声楽を上真行に師事する[1]。
- 1884年2月、バイオリンの試験でクロイツァーの42番を演奏し、88点を獲得し、音楽取調掛の卒業試験に合格する[1]。
- 1885年(明治18年)7月20日、16歳で音楽取調所(掛から改称)で最初の全科修了生となる。卒業生は3名で幸田延、市川ミチ子、遠山甲子であった[3]。幸田は研究科に進む。卒業演奏で延は遠山甲子のピアノ伴奏でヴァイオリン独奏「ラスト・ローズ・オブ・サマー」、ピアノ独奏「舞踏への招待」(ウェバー作曲)を演じた。卒業生の幸田延と遠山甲子は全科修了後、「助手」を拝命し、教育活動を開始した。11月からは明治女学校の唱歌教育が始まったため、音楽取調掛から派遣され週1回指導した。
- 1886年(明治19年)、音楽取調掛に正式勤務となった。
- 1887年(明治20年)、東京女子高等師範学校附属女学校にも出向き、合わせると月俸14円となった。
- 1888年(明治21年)11月に着任したルドルフ・ディットリヒの薫陶を受け、バイオリンを習った。教則本はクロイツアーであった。ディットリヒの推薦により留学が決まる。幸田延の留学には御雇外国人教師のディットリヒの意見が大きく作用していた。この年、ウィーンから来日した音楽家ディットリヒは文部大臣の森有礼や音楽学校関係者に外国人を招くだけでなく、優秀な日本人を本場へ留学させるべきであると進言したのである[4]。
- 1889年(明治22年)4月、音楽分野での文部省派遣留学生第1号を公式に命じられた。22年4月の文部大臣榎本武揚の下命書に「音楽修業として満三年米国及び独逸国留学を命す。但バイオリン科を専修すへし又初一ヶ年は米国ボストン府ニューイングランド、コンセルバトリーに於て後二ヶ年は独逸国に於て修業すへし」と書かれている[5]。延は第1回文部省音楽留学生として渡米する。ボストンのニューイングランド音楽院に入学する。専攻はバイオリンであった。ヨーゼフ・ヨアヒムの弟子のエミール・マールのもとでバイオリンを習得。傍らカール・フェルの指導でピアノも学び、寄宿舎で生活する。ニキシュ、サラサーテの演奏を聴く。
- 1890年延はボストンより一旦帰国する。4月にはウィーン音楽院に留学し、ヨーゼフ・ヘルメスベルガー二世にバイオリンを、フレーデリク・ジンガーにピアノを、ロベルト・フックスに和声学、対位法と作曲法を学ぶ。20歳。
- 1895年(明治28年)、ウィーン国立音楽学校で5年間学び、11月9日に帰国する。前年に帰国したディートリッヒの後任として東京音楽学校助教授に就任。25歳。
- 1896年(明治29年)、帰朝記念演奏会を東京音楽学校奏楽堂で開催。メンデルスゾーン「バイオリン協奏曲ホ短調」第一楽章の独奏、シューベルト「死と乙女」独唱を披露。
- 1897年、延は『バイオリン・ソナタ ニ短調』を発表する[6][7]。
- 1899年(明治32年)、東京音楽学校教授に就任[8]。
- 1906年(明治39年)、従五位。2月15日、大衆紙「日本」に「日本で2番目の高額所得女性」と書かれる。
- 1909年(明治42年)、延の弟子三浦環の不倫事件が世間を騒がせる。同年9月9日、延は「文部分限令第十一條第一項第四号」により東京音楽学校から休職を命じられる[9]。東京音楽学校内や当時の新聞や文芸誌などからバッシングを受け、休職に追い込まれた[注 2]。
9月25日、横浜港からドイツ船でヨーロッパに出発。ベルリン・パリ・ロンドンに滞在。39歳。 - 1911年 (明治44年)、兄の郡司大尉の世話で、赤坂紀尾井町3番地に邸宅を購入。「審声会」を開き、個人教授を始める。41歳。
- 1912年(明治45年)春、隅田川の氾濫のため、露伴の子(文、成豊)を延の居宅である麹町区紀尾井町で面倒を見た。晩年まで自宅で個人教授を続けた。
- 1918年、紀尾井町の自邸内に「洋洋楽堂」と呼ぶ音楽堂を建築する。48歳。
- 1919年、徳川生物研究所を主宰する徳川義親侯爵一行に同行し、北千島探検旅行に出かける。49歳。
- 1921年、来日した人気バイオリニストミッシャ・エルマンが「洋洋楽堂」を訪れ、私的な演奏会を開く。
- 1931年、東京音楽学校同声会と「洋洋楽堂」審声会との合同主催により「幸田延子先生功績表彰会」が開催され、延の楽壇生活50年と還暦が行われる。61歳。
- 1937年(昭和12年)6月、音楽界最初の帝国芸術院会員に推挙される。兄の露伴も同時に芸術院会員となる。67歳。
- 1945年、紀尾井町の家は焼け残ったが戦時中の窮乏生活のため、心臓病を悪化させた。75歳。
- 1946年(昭和21年)6月14日心臓病のため没。76歳。東京大田区池上本門寺に葬られた。
- 1956年、延の弟子たちが池上本門寺に延の記念碑を建立。
人物[編集]
子供の頃の幸田延の利発さは教師の間でも知られており、明治8年から12年に掛けて飛び級により4年間で御茶ノ水の東京女子師範附属小学を卒業した。しかし弟の成友によれば、正式に卒業していない可能性があるようだ(幸田成友「姉と妹と自分」上)。
休職に至る事情として、『やまと新聞』明治41年9月1日から3日付けの記事に「幸田延子女史は本校に少なからざる功労のある人で又芸術家として尊敬すべき天才を有している、しかし教育家としての品性人格は絶対に否認せざるを得ない、教育家養成主義たる本校にかくの如き人を置くのは害あつて益がなからう、女史が退けば本校否我が音楽界が如何に発展するかは言を俟たずして明である・その理由はここに説明せずともすでに世評の存するところであろう」と書かれた。次いで『東京朝日新聞』明治41年9月に「憂うべき音楽界」と題した連載記事で「ああ尊きこの大芸術を婦女子の手にのみ委して、男子拱手傍観して沈黙すると云ふは由由しき国辱にあらずや」と名指しで報道された。当時音楽界の重鎮であった幸田に対して男性教員からの反感や嫉妬があり、東京音楽学校長の湯原元一は、メディアの風潮を利用して策を練り、要職にあった幸田延を休職に追い込んだ[10]と言われる。
湯原校長は4月にドイツからピアニスト・ロイテルを招聘し、ピアニスト神戸教授もフランスから帰朝したので、当校はピアニスト3名を必要としないと語った。しかしこの説明は事実と異なる点がある。ロイテルが来日したのは1909年5月26日であった。
東京帝国大学で哲学を教えていたラファエル・フォン・ケーベルは、東京音楽学校で音楽史とピアノを教えていたが、幸田延に休職命令が出ると、直ちに東京音楽学校に辞表を提出し、9月22日に音楽学校を辞職した。漱石の日記には「日本で音楽家の資格があるのは幸田延だけだ。ピアニストという意味ではなく、音楽家である。日本人は指先で弾くから駄目だ、頭がないから駄目だ、音楽学校は音楽の学校ではなく、スキャンダルの学校である。第一あの校長はだめだ」[11]。
幸田延は「男のようなぶっきらぼうな方」と山田幸作は回想する[12]。幸田延の歯に衣をきせない物言いは、技術監から演奏技術の未熟さを指摘された男性教師や生徒は、敵意を感じたであろうとされる[10]。
1909年(明治42年)9月9日、休職が命じられた日に、文部省から六級奉が下賜され、2日後に「在職中職務勉励ニ付」、として金300円が幸田延に下賜された。実質的には退職金である。
1906年(明治39年)2月15日の読売新聞「女教師の収入」によれば、当時の高等小学校の男性教諭の平均月給は20円84銭。女性教諭の平均月給は14円60銭。女性トップの収入は華族女学校の下田歌子、年収5,000円(月給換算417円)。2位はヴァイオリン・ピアノ奏者幸田延、年収1,800円(月給換算で150円)。現在価値換算では月収245万円、年収2940万円となる高額所得者であった。
幸田延は音階を歌ふ練習を、小供の頃から長唄やお琴をやっていたため、難しくないと感じていた。その頃、楽器店は一軒もなく、ピアノを自宅で勉強する事はできなかった。
池上本門寺の幸田延の墓は「幸田延子」となっている[13]がこれは誤りである。養子縁組した養子が親しみを込めて「子」をつけた可能性があるという。なお教え子が作った石碑には、「幸田延」先生と記載されている[13]。女性名に「子」をつけるようになったのは、東京音楽学校・演奏会曲目の記録に依拠し、大正期になってからという意見がある。しかし、明治29年4月19日の演奏会記録には「幸田延子」と記載されている[14]。「幸田延」(明治32年4月23日演奏会記録)「幸田のぶ子」(明治29年7月4日演奏会記録)と記載されている記録もある。演奏会プログラムでは表記が統一されていない。
「音楽教育界の大御所」「上野の女王」などと当時のマスコミ等で揶揄された。これらの背景には男性教師による女性教師への反感があったものと思われる。当時は女性が社会で活躍することへの抵抗感が男性に根強かった時代である。
幸田延は当時において音楽的才能はとびぬけていたが、幸田延と安藤幸らを除けば、明治20~30年頃の日本バイオリン界は、現代の小学生の習い事程度のレベルであり、明治期には東京音楽学校卒であっても、初歩的な音楽教育しか受けていなかったとされる[15]。明治18年の時点で、ピアノをまともに演奏できたのは中村専、瓜生繁子など2、3人程度であったといわれている。
幸田延の妹安藤幸(当時は幸田幸)が、幸田延に続く二人目の国費留学生となったとき、新聞記事で幸田延の介入によるものと非難された。続く3人目の留学生が滝廉太郎であった[10][4]。
弟子[編集]
作品の評価[編集]
幸田の作風や作曲活動の意義と限界について、平高典子が分析している[16]。
神奈川県立横浜平沼高等学校校歌は1916年(大正5年)に制定されたが、作詞は佐佐木信綱/作曲は幸田延である。横浜平沼高等学校の2期生(明治37年本科卒)の末木美衛が幸田延に作曲を依頼したとされる。幸田延作曲の校歌について最初の二小節が滝連太郎の「荒城の月」と全く同じであることは、幸田延が弟子の滝廉太郎を追悼し、意図的に二小節を校歌の冒頭に取り入れたとの解釈が定着している。
作品リスト[編集]
- 混成4部合唱つき交響曲『大礼奉祝曲』1915年
- 大正天皇の即位式典に際して
- 『バイオリンソナタ 変ホ長調』(一部未完)1895年[17]
- 『バイオリンソナタ ニ短調』(一部未完)1897年[18]
- 『小変奏曲』ピアノ独奏、作曲年代不明
- 『連弾小曲』ピアノ1台、4手連弾、作曲年代不明
- 中学唱歌『今は学校後に見て』声楽のみ、1901年
- 歌曲『藤のゆかり』独唱とピアノ伴奏、1915年
- 歌曲『常若の花』独唱とピアノ伴奏、1929年[19]
- アルト独唱付き女声3部合唱曲『蘆間舟』1931年
- 第1部アルト独唱、ピアノ伴奏、第2部女声3部合唱、ピアノ伴奏
- 無伴奏混成4部合唱曲『天』ソプラノ、アルト、テノール、バス1931年
- 歌詞の作曲は明治天皇
脚注[編集]
- 注
- 参考文献
- ↑ a b c d 萩谷由喜子(2000)『幸田姉妹』ショパン、ISBN-10:4883641686
- ↑ 玉川裕子(2012)「音楽取調掛および東京音楽学校(明治期)教員のジェンダー構成」桐朋学園大学研究紀要38、pp.47-73
- ↑ 音楽取調掛最初の全科卒業生東京芸術大学
- ↑ a b 瀧廉太郎の留学東京芸術大学
- ↑ 平高典子(2013)「幸田延のボストン留学」 玉川大学文学部紀要 (54),pp. 191-211
- ↑ 幸田延;池辺晋一郎校訂・補作(2006):2つのヴァイオリン・ソナタ全音楽譜出版社
- ↑ メロディ ~幸田延のヴァイオリン・ソナタと同時代の作品を集めて~Tower Records
- ↑ 東京音楽学校奏楽堂を歩く台東区
- ↑ 瀧井敬子・平高典子(2012)『幸田延の滞欧日記』東京芸術大学出版会
- ↑ a b c 平高典子(2015)「幸田延のヨーロッパ音楽事情視察」芸術研究、玉川大学芸術学部研究紀要 (7), pp.13-27
- ↑ 夏目漱石(1996)『漱石全集』第20巻
- ↑ 山田耕筰(2001)『山田耕筰全集』第1巻
- ↑ a b 幸田延子の墓は間違い、本名は幸田延である
- ↑ 小長久子(1968)『滝廉太郎』吉川弘文館
- ↑ 130年前のスーパー天才シスターズVioliner、2014年7月17日
- ↑ 平高典子(2017)「作曲家としての幸田延」芸術研究 : 玉川大学芸術学部研究紀要 (9),pp. 1-14
- ↑ 幸田延:ヴァイオリンソナタ 第1番 変ホ長調
- ↑ 幸田延: ヴァイオリンソナタ 第2番 ニ短調
- ↑ 與謝野晶子作歌;幸田延子作曲(1929)「常若の花 : 三月六日奉祝の歌」共益商社書店