大御所時代
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大御所時代(おおごしょじだい)は寛政の改革から天保の改革までの時代であるが、特に文化・文政年間(1804年~1830年)を指す。第11代将軍徳川家斉は将軍位を子の徳川家慶に譲った後も、大御所として幕政に大きな影響を与えたため[1],のちにその治世をも含めて大御所時代といわれる[2]。家斉は亡くなるまで政治の実権を握っていた。
文化期[編集]
寛政の改革の質素倹約が継続された。関東の農村で博徒が増え治安が悪化した。対策として幕府は役人から8名を関東取締出役に選出し、2人1組で関八州(関東8カ国)を巡回させ、領主に関わらず無宿人や博徒の逮捕・取締りを実行した。
文政期[編集]
品質の劣る貨幣を大量に流通させる、いわゆるインフレーションを起こさせたため、将軍や大奥の生活が贅沢になり、賄賂が横行し政治が腐敗した。幕府や諸藩の財政は窮乏していった。江戸を中心に町人文化が栄えた。幕藩体制では最後の安定期であった。
当時の日本国外[編集]
中国は、清朝で皇帝は嘉慶帝、道光帝。イギリス・インドとの間でアヘンの密貿易が増加していた。
トルコは、ほぼマフムト2世の時代に相当する。モルドバをロシアに割譲、ギリシャの独立など、衰退期にあった。
フランスは、ナポレオンが皇帝に即位、すぐにロシア遠征に失敗して失脚し、ブルボン王朝が復活するなど混乱期であった。
イギリスは、ジョージ3世、ジョージ4世の時代である。以前より徐々に進んでいた産業革命が、ほぼ完成にほぼ向かっていた。
その他[編集]
- 徳川御三家のうち、尾張家、紀伊家は受難期で、尾張家は家祖義直からの血統、紀伊家は6代宗直からの直系が絶え、家斉の子が当主に押し付けられる不安定期だった。一方、水戸家は6代治保、7代治紀、9代斉昭と後継に恵まれ、治保の次男は尾張藩支藩の高須藩を後継して、後の高須4兄弟の祖父となっている。
- 家斉の子の押し付けは明石藩の様に、血統が途絶えていないにもかかわらず加増目的で実施された藩もあった。また、徳島藩の蜂須賀氏のように家斉の子の養子入りで血統が変わった藩も多かった。
- 家斉は約半世紀、徳川宗家当主の地位にあったが、2023年元旦に徳川宗家当主を息子に生前相続した18代当主恒孝は60年余り当主であり、徳川宗家当主在任記録を更新した。