安政の改革
安政の改革(あんせいのかいかく)とは、江戸幕府の老中(首座)である阿部正弘を主導者として行なわれた江戸時代後期から末期(幕末)における幕政改革のことである。
概要[編集]
主に安政年間(1854年 - 1860年)に行なわれたことから安政の改革と呼ばれているが、実際には弘化年間(1845年 - 1848年)から改革は行なわれていた。江戸幕府の3大改革と称される享保の改革・寛政の改革・天保の改革と並ぶ重要な改革のひとつである。
天保の改革が失敗し、水野忠邦が1度の復帰を経て再度失脚した後、第12代征夷大将軍である徳川家慶は新たな老中首座として阿部正弘を起用した。阿部正弘は連年のように日本に対して強まる列強の外圧、さらに幕府の財政悪化や衰退などが次第に顕著になりつつあるのを再建するため、諸大名から意見を求めたりしていた。ただ、江戸幕府が続いて既に240年以上も過ぎていたため、旧来の利権にこだわって阿部の幕政改革に反対する派閥も多く、そのため阿部は従来の主流派である譜代大名ではなく、非主流派として冷や飯を食わされていた親藩や外様大名から支持を得て巧みな調整力を見せながら幕政改革を進めていた。名を挙げれば越前福井藩主・松平慶永、徳川御三家のひとつである元水戸藩主[1]・徳川斉昭、薩摩藩主・島津斉彬[2]らが阿部正弘の改革に協力する立場になって反対派を押さえていた。
嘉永6年(1853年)の黒船来航でマシュ・ペリーが浦賀に来航すると江戸幕府はその対応をめぐり危機的な状況に陥る。同時期に将軍・徳川家慶も病死し、第13代将軍として就任した徳川家定が病身で凡庸だったこともあり、幕政の実権は完全に阿部が掌握することになった。阿部は嘉永7年(1854年)に日米和親条約を締結し、開国することを決断する。そしてその一方で幕府の近代化を進めるため、開港に備えた国防強化、講武所の充実や軍隊の洋式訓練の採用、長崎海軍伝習所の設立、韮山反射炉の建設、洋学所の設立などを行なっている。
この安政の改革で最も重要なのは、身分制度で登用されることが基本となっていた江戸幕府において、阿部は従来の慣例を無視して身分を問わない能力主義による優秀な人材登用を行なったことである。名を挙げれば、江川英龍、岩瀬忠震、勝海舟、大久保忠寛、永井尚志、井上清直、筒井政憲などが阿部政権下で登用された。これらの人材は阿部の没後も幕府において開明派の幕僚・政治家として外交・内政両面で大いに辣腕を発揮している。
また、病弱な徳川家定には嗣子が無かったため、早くから後継者問題が浮上していた(徳川家定の後継者問題)。阿部正弘は人物・識見、さらに斉昭の支持を得るためなどから斉昭の子で一橋徳川氏を継承していた徳川慶喜を候補に推していた。これに対して阿部の改革に反対する派閥や非主流派に追いやられていた譜代大名ら(彦根藩主・井伊直弼など)は徳川御三家で、家定の従弟である紀伊藩主・徳川慶福を候補に推していた。この争いの最中である安政4年(1857年)、日米修好通商条約の締結を前にして阿部は病死した。
阿部の死により、幕政の実権は阿部が死去する2年前に老中首座となっていた堀田正睦が掌握する。しかし堀田は阿部の路線は継承したが、阿部のように巧みな調整力や政治力に欠けていたため、主流派と非主流派とのバランスが取れなかった。
安政5年(1858年)に非主流派の政治工作で井伊直弼が大老に就任すると幕政の実権は井伊に移ることになり、その井伊の強権によって次期将軍は徳川慶福(改名して家茂)に、さらに日米修好通商条約も京都の孝明帝が反対するなか締結されることになった。さらに井伊は京都朝廷の勅許を得ない条約締結で過激派と化した尊王攘夷派を弾圧するため、安政の大獄と呼ばれる江戸時代でも類を見ない大規模な弾圧を開始した。この弾圧には阿部が生前に登用した人材の多くも反対派あるいは一橋派を支持したとして、死罪や謹慎対象にされ、これにより江戸幕府は大いに人材を失うと同時に外様大名の支持も失うことになった。
阿部の存命中は揺らぎつつあった幕藩体制の再強化には何とか成功した改革であったが、阿部の死去により、幕閣内にその遺志を継げる者が無く、結局は失敗に終わり、井伊直弼の死後、老中首座相当だった安藤信正や久世広周が公武合体策を推進したが、穏健過ぎて変化する内外情勢に対処できず、島津斉彬の異母弟で薩摩藩の国父に過ぎない島津久光が京都朝廷の支援の下、江戸に乗り込んで、徳川慶喜など安政の大獄で弾圧された人材の復権が行われた。また、上洛が増えた将軍の家茂も慶応2年(1866年)に21歳の若さで逝去した。