武田信虎の墓
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武田信虎の墓(たけだのぶとらのはか)とは、山梨県甲府市古府中町の大山寺境内にある武田信虎の墓である。現在は山梨県の史跡に指定されている。
概要[編集]
武田信虎は永正4年(1507年)に父・武田信縄の死去により甲斐武田氏の当主に就任すると、叔父の油川信恵の反乱を鎮圧し、甲斐の統一と武田氏の戦国大名への整備、信濃への勢力拡大と多くの事績を築き上げた武将であった。しかし国内統一から他国への勢力拡大には人民への負担が大変重く、しかも信虎の時代には甲斐国で飢饉が起こるなどして次第に家臣団・人民の不満が高まってゆく。また信虎自身、嫡子の武田晴信を廃して4男の武田信繁を後継者にしようと画策したため、遂に天文10年(1541年)に武田晴信とそれを支持する板垣信方・甘利虎泰・飯富虎昌・馬場信春らのクーデターにあって、駿河の今川義元の下に追放されてしまった。
以後、信虎は死去するまで甲斐に帰国できず、駿河に流れた後は京都に赴いたりして、晩年は信濃の娘婿・祢津神平の屋敷に匿われていたという。皮肉にも信虎は自分を追放した晴信(信玄)より長命を保ち、元亀4年4月12日(1573年5月13日)に信玄が死去してからのおよそ1年後にあたる天正2年3月5日(1574年3月27日)に81歳の長寿をもって死去した。信虎の葬儀は孫(信玄の4男継嗣)である武田勝頼によって大泉寺で盛大に行なわれたと伝わっている。
現在は信虎・信玄・勝頼の戦国大名としての武田家3代の肖像を祀る霊屋の裏の軒下に、石垣に囲まれている小さな五輪塔で右に信玄、左に勝頼の宝興印塔が並ぶ形で存在している。昭和35年(1960年)に山梨県の史跡に指定された。
アクセス[編集]
- 甲府駅からバスで5分。徒歩で20分。