樋口雅兼
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樋口 雅兼 ひぐち まさかね | |||||||||||||||
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樋口 雅兼(ひぐち まさかね)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。豊臣氏、後に堀尾氏の家臣。近江国内(場所不明)で1万7000石の大名である[1]。
略歴[編集]
出自は伯耆国海池村である。姓は樋口で諱の通字も上杉景勝の重臣・直江兼続の前名である樋口兼続と似ているが、関係は無いと思われる。なお、雅兼の前半生や系譜については不明だが、羽柴秀吉が織田信長に仕えていた頃からの家臣で、信長の命令で中国地方攻めを担当する頃には既に仕えていたようで、秀吉のかなり古くからの家臣と考えられる。天正6年(1578年)に100石を与えられた[1]。
天正7年(1579年)、秀吉が播磨国三木城の別所氏を攻めた際、別所一族の治定を討ち取る大功を立てたため、秀吉の弟・秀長から100石を与えられた。天正11年(1583年)には近江国内(神崎郡・蒲生郡・野洲郡の内)で加増されて1万7000石の大名となっているが[1]、これは秀吉の家臣の中でも早い大名への出世である。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属したが、具体的な行動については不詳。戦後は改易されて浪人となり、諸国を流浪した。慶長19年(1614年)から大坂の陣が開始されると、一族の樋口兼興と共に大坂城に入城した。翌年に豊臣家が滅亡すると、出雲国松江藩主の堀尾忠晴のもとに赴いてその客将として仕えた。元和5年(1619年)か元和6年(1620年)頃に死去したという[1]。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]