樋口雅兼

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樋口 雅兼
ひぐち まさかね
性別 男性
時代 戦国時代から江戸時代前期
生年月日 不詳
生誕地 伯耆国・海池村(現在の鳥取県米子市
死没日 元和6年(1620年)?
肩書き 豊臣氏家臣
国籍 日本国旗.png日本

樋口 雅兼(ひぐち まさかね)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将豊臣氏、後に堀尾氏家臣近江国内(場所不明)で1万7000石の大名である[1]

略歴[編集]

出自は伯耆国海池村である。姓は樋口での通字も上杉景勝の重臣・直江兼続の前名である樋口兼続と似ているが、関係は無いと思われる。なお、雅兼の前半生や系譜については不明だが、羽柴秀吉織田信長に仕えていた頃からの家臣で、信長の命令で中国地方攻めを担当する頃には既に仕えていたようで、秀吉のかなり古くからの家臣と考えられる。天正6年(1578年)に100石を与えられた[1]

天正7年(1579年)、秀吉が播磨国三木城別所氏を攻めた際、別所一族の治定を討ち取る大功を立てたため、秀吉の弟・秀長から100石を与えられた。天正11年(1583年)には近江国内(神崎郡蒲生郡野洲郡の内)で加増されて1万7000石の大名となっているが[1]、これは秀吉の家臣の中でも早い大名への出世である。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属したが、具体的な行動については不詳。戦後は改易されて浪人となり、諸国を流浪した。慶長19年(1614年)から大坂の陣が開始されると、一族の樋口兼興と共に大坂城に入城した。翌年に豊臣家が滅亡すると、出雲国松江藩主の堀尾忠晴のもとに赴いてその客将として仕えた。元和5年(1619年)か元和6年(1620年)頃に死去したという[1]

脚注[編集]

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注釈[編集]

出典[編集]

  1. a b c d 渡邊大門「関ヶ原合戦人名事典」P276

参考文献[編集]