樋口一葉
樋口 一葉 ひぐち いちよう | |||||||||||||||||||||||||||||||||
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樋口 一葉(ひぐち いちよう、明治5年3月25日(1872年5月2日)- 明治29年(1896年)11月23日)は、日本の小説家。東京府出身。本名奈津。小説「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」など。
略歴[編集]
女性作家として[編集]
東京内幸町の東京府庁の官舎で生まれる。本名は奈津といい、父は江戸の八丁堀与力で東京府の下級吏員となった樋口則義で、母は多喜といい、一葉はその次女であった。一葉の家は貧乏だったといわれる。明治16年(1883年)に高等科第四級を首席で修了するほどの天才少女で、一葉は進学を希望したが、母の反対で断念した。明治19年(1886年)に歌塾萩の舎を開いていた中島歌子に入門した。明治20年(1887年)に長兄が病死したため、15歳で戸主となる[1][2]。
明治22年(1889年)に父が死去し、これにより樋口一家は女所帯で内職生活を余儀なくされた。樋口家は一気に生活苦となり、一葉は仕立物の内職などをしながら生活を支えたが、暮らしを支えるために作家を志した。明治24年(1891年)4月、知人の紹介で、『東京朝日新聞』の小説記者である半井桃水の門に入り、明治25年(1892年)9月に「うもれ木」を発表し、これを機に作家として名を轟かせた[2][1]。桃水は早くから一葉の才能に気づき、そのデビューを助けて自らも『武蔵野』を創刊するが、萩の舎で桃水と一葉の関係が醜聞に至ったので離別に至った[1]。
明治26年(1893年)夏、生活の行き詰まりから[1]下谷竜泉寺町(現在の東京都台東区)に居住して荒物屋・駄菓子屋を開いて生計を立てていたが、その中でも同門の田辺花圓の推薦で『女学雑誌』から独立した文芸誌『文学界』に「雪の日」「琴の音」などを発表している[1]。
明治27年(1894年)5月に本郷丸山福山町(現在の東京都文京区)に移り、この頃に「大つごもり」(1894年)「たけくらべ」(1895年)を『文学界』に、「十三夜」「にごり江」(2つとも1896年)などを『文芸倶楽部』などに次々と発表。文豪の森鴎外や幸田露伴から賞賛を受けて、一躍女流作家の第一人者として認められるまでに至った[2][1]。
闘病と若すぎる死[編集]
明治29年(1896年)4月、一葉は風邪をひき、なかなか治らなかった。それが長期化したので、8月の初旬に駿河台の医師・樫村清徳の診療を受けて、そこで肺結核であると診断された。しかも樫村は重症であり、恐らく恢復の見込みは無いと診断した[2]。
これを聞いた斉藤緑雨は森鴎外に頼み、その紹介で当時東京帝国大学教授で日本一の内科医と謳われた青山胤通の診察を受けるも、樫村と同じで極めて重症だと診断した。しかもこの頃から一葉は高熱が続いて食欲も衰え、全身が憔悴する有様だった。当時、竹早町(現在の文京区)に住む三浦省軒という医師の診療を受けていた。『毎日新聞』(明治29年9月3日付)によると、「氷で一葉の胸部を冷やしたり、吐血しないように注意したが、一葉は熱のために昏睡状態となり、家族は手に汗を握る状態であった。秋に入る頃に一時的に恢復し、薄粥を食べるほどになった」という。そして同日の新聞では一葉を「文壇で名声を轟かせた女史(一葉)が、この大患にかかったことは惜しまれ、1日も早く回復して冬には再び文壇の世界を色染めてほしい」と一葉が病気に倒れたことを惜しみ、回復することを望んでいる[2][3]。
なお、一葉は肺結核で重態であるにも関わらず、自身に来客があった際には平気で会ったという。9月8日の副島八十六の日記には、「女史病をつとめて隣室に予を延いて会談せり。談話殆ど1時間につき」とある[3]。隣室に来客を置いたというのは、恐らく肺結核の感染を恐れてのことだと推定される。
しかし、病気は悪化して、11月3日から11月4日にかけて頬が赤くなり、髪は乱れて、身体は痩せ衰えた[4]。この頃に訪ねた馬場弧蝶が来年の春にお目にかかりたいですね、と言ったところ、一葉は既に自身の死期を悟っていたのか、「その頃私は石にでもなっていましょう」と述べたという[4]。11月23日に一葉は死去した[5]。数えで25、満で24歳と半年ほどという若すぎる死であった。その遺骸は荼毘に付されて、築地の本願寺の樋口家墓地に葬られた。法名は智相院釈妙葉信女[2][3][6]。
現在は東京都台東区龍泉3丁目にある一葉記念館に、一葉の多くの遺品が陳列されて、往時の面影をしのんでいる[6]。
塩田良平によると、樋口家に結核の体質が遺伝されていたとされ、一葉の兄・泉太郎や父の則義、妹の邦子の子供3人も原因不明の病気で死亡しているとされている[6]。結核だった可能性もある。
『読売新聞』(明治29年11月26日付)では、若松賤子、田沢稲舟らに続いて、一葉もこの年に死んだことを記した上で、なぜ将来の大器となる作家を天は奪うのか、と評している。ちなみに若松は一葉が死ぬ9か月前の2月に35歳で、田沢は2か月前に19歳でそれぞれ死去している[6]。
作品[編集]
樋口一葉を扱う作品[編集]
- 山田風太郎『明治波濤歌』より「からゆき草紙」
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
関連項目[編集]
参考文献[編集]
外部リンク[編集]
- 樋口一葉 | 近代日本人の肖像 - 国立国会図書館
- 樋口一葉:作家事典:ほら貝
- 樋口一葉:文学者掃苔録
- 樋口一葉 について - 立教大学図書館
- 港区ゆかりの人物データベースサイト・人物詳細ページ (樋口一葉)
- 一葉記念館 - 東京都台東区竜泉3丁目18番4号にある。
- 樋口一葉の文学碑 - 全国観るなび 甲州市 (日本観光振興協会)
- 樋口一葉生誕の地 - 千代田区観光協会