劉巴 (222年没)

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劉 巴(りゅう は、? - 222年)は、中国後漢末期から三国時代にかけての政治家子初(ししょ)[1]。祖父は劉曜、父は劉祥

生涯[編集]

荊州零陵郡蒸陽の出身[1]荊州劉表に父の劉祥が嫌われていた関係から、劉巴は若い頃に劉表に捕縛されて殺されかけた事もあったという[1]。しかし劉表は劉巴の才能を知ると態度を改め、何度も劉表から招聘を受けるが出仕はしなかった[1]

208年に劉表が死去し、曹操が荊州を支配下に置くと劉巴は曹操に出仕し、劉巴はに任命されて荊州南部の各郡を帰順させるための使者として派遣されるが、その間に曹操が鳥林の戦い赤壁の戦いで敗れ、さらに荊州が劉備に支配されたために華北にいる曹操の下に戻れなくなった[1]。しかし劉備に帰順する事を嫌い、交州士燮の下に身を寄せて姓を張と改姓した[1]

しかし士燮と意見が合わずに対立し、交州を去って益州劉璋に仕える[1]。劉璋が荊州の劉備を蜀に迎えようとした際には反対して懸命に諌め、劉璋が聞き入れずに劉備の入蜀から争乱になり、劉備により蜀が平定されると劉巴は病気と称して出仕しなかった[1]。しかし後に前の罪(荊州から交州へ逃亡したこと)を陳謝して劉備に出仕し、尚書令にまで昇進したが清廉で私財を蓄える事は決してしなかったという[1]。また、劉備の股肱である張飛が自分の下を訪れても口をきかず、「英雄とは交わるが、軍人とは語らない」と述べる変わり者だったという[1]。222年に死去した。

三国志演義』では第62回で劉璋の家臣として初登場[1]。史実と違い延命されており、第91回の諸葛亮による227年の第1次北伐にも中参軍として登場している[1]

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i j k l 小出『三国志武将事典』P223

参考文献[編集]