明智城の戦い
明智城の戦い(あけちじょうのたたかい)とは、天正2年(1574年)春に行なわれた織田信長軍と武田勝頼軍の戦いである。この戦いは武田勝頼軍が勝利し、東美濃の大半が武田方の所領となった。
概要[編集]
元亀3年(1572年)10月に甲斐国の武田信玄が開始した西上作戦の前に、美濃国の織田信長、三河国の徳川家康は押される一方で、同年末には三方ヶ原の戦いで武田軍に惨敗した。しかし元亀4年(1573年)4月、武田信玄は病気により信濃国駒場で死去する。このため、武田軍は甲斐国に撤退せざるを得なくなり、織田信長と徳川家康は息を吹き返し、信長は足利義昭を京都から追放して室町幕府を滅ぼし、さらに浅井長政と朝倉義景を滅ぼして近江国・越前国を平定した。また、家康は武田方についていた山家三方衆の奥平貞能・奥平貞昌を寝返らせて三河長篠城を奪回するなど、信玄の死に乗じて信長・家康による反攻が開始された。
これに対して、信玄の跡を継いだ4男・武田勝頼は天正2年(1574年)1月までに信玄の後継者としての体制を固めると、信長に対して反撃を開始する。天正2年(1574年)2月、勝頼は西上作戦の際に既に奪っていた岩村城に入り、さらに織田方の東美濃の諸城を攻めることにした。勝頼が侵攻してきたのを知った信長は2月10日、『信長公記』や『甲陽軍鑑』によると6万の大軍勢を率いて武田方が攻めていた明智城を後詰しようとした。対する武田軍は6000人余りの兵力で山県昌景が迎撃し、鶴岡山に布陣していた織田軍を急襲したという。信長はこの急襲に驚いて8里も後退し、山県の追撃により信長の馬廻もかなりの数が戦死したとされる。
信長の敗戦を知った明智城主・遠山利景は戦意を失い、勝頼に降伏した。勢いに乗った勝頼は今見城・明照城・飯羽間城など信長が武田に備えて築城していた東美濃18城を4月上旬までに悉く攻略し、この戦勝をもって信玄亡き後の武田軍の強さを天下に示した。
なお、武田家の足軽・小者などの下級武士は「信長はいまみ(今見)あてらや(明照)いひはざま(飯羽間)、城をあけち(明智)とつげのくし原」と歌いあったという。歌の意味は「信長は今見城・明照城・飯羽間城・明智城などを明け渡すまいとしたが、全て落ちてツゲの櫛のように抜けてしまった」である。