宇土城
宇土城(うとじょう)とは、現在の熊本県宇土市古城町に存在した日本の城である。キリシタン大名・小西行長・小西行景の居城として知られている。
概要[編集]
宇土古城[編集]
宇土駅の南西およそ1.5キロの田園地帯に盛り上がった海抜35メートルの西岡台と呼ばれる独立丘陵に存在した城である。最初に築城された年代は明らかではないが、室町時代後期の文明年間(1469年から1487年)に当時の肥後国の守護大名である菊池重朝の叔父・菊池為光が居城にしたことが記録にあるので、この頃には城として機能していたと見られる(宇土古城)。後に古麓城主である名和氏の支配下に入った。この名和氏は建武の新政で大功を立てた伯耆国の名和長年の孫の名和顕興が征西将軍で後醍醐天皇の皇子であった懐良親王を助けるために肥後に下向し、古麓城に入城して肥後名和氏として土着したのがその起源と言われている。
永正元年(1504年)に名和顕忠は球磨郡の相良長毎に古麓城を奪われて宇土城に撤退する。以後、肥後名和氏は宇土城を居城とし、顕忠から数えて4代目で孫にあたる行興の時に宇土と改姓して宇土行興と名乗った。宇土氏は豊後国の守護大名・大友宗麟に服属したが、天正年間に入ると南から薩摩国の守護大名・島津義久の圧迫を受けて島津氏の服属下に置かれる。そして天正15年(1587年)の豊臣秀吉の九州征伐により豊臣軍に攻められて宇土城を開城して降伏した。
城山のほうの宇土古城跡は宇土市指定の史跡に認定されているが、現在は学校の敷地や畑、雑木林などに変わっており、江戸時代前期の寛永14年(1637年)の島原の乱で、キリシタンがここに立て篭もることを恐れた江戸幕府の幕命によって徹底的に破却されたので、現在は遺構はほとんど伝わっていない。わずかに本丸跡の石垣だけが残っているだけである。
宇土新城[編集]
九州征伐後、佐々成政を経て肥後は秀吉の腹心である加藤清正、小西行長に半国ずつそれぞれ与えられることになり、肥後南部24万石の領主となった小西行長は西岡台の東の城山に新たに宇土城を構築してそこを居城とした(宇土新城。かつて存在した宇土古城とは別物である)。この築城の際、小西は領内の豪族に資材や人夫の供出を命じたが、天草種元や大矢野種基ら天草5人衆はこれを拒否した。理由はこれらが秀吉から所領安堵を受けており小西の家臣ではないから従う必要はないということであったが、小西は当然のごとく激怒して加藤清正に支援を要請し、天草5人衆をことごとく討ち取っている。なお、この際の加藤清正と天草側の木山弾正の一騎討ちによる大激戦は戦国の武勇談として現在に伝えられている。
朝鮮出兵で小西行長は加藤清正と敵対する。そのため、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは小西は西軍、加藤は東軍に属した。なお、小西行長は主力軍を率いて畿内を転戦し、加藤清正は主力軍を率いて宇土城を激しく攻め立てたが、宇土城は関ヶ原本戦の決着がつくまで持ちこたえる堅固ぶりを発揮している。戦後、小西は西軍の首謀者として斬首され、宇土城は落城して加藤清正の属城となった。
清正は小西の旧領を得て肥後1国の太守となり、居城の熊本城の改築を開始したが、その際に宇土城の天守閣を熊本に運び去ったと言われており、これが現在も熊本城内に残る宇土櫓だと言われているが、確証はない。宇土城は清正没後の慶長17年(1612年)に破却されることになった。
現在、西岡台には西側に幅10メートルから15メートル、深さ5メートルから7メートルの堀が遺存しており、主郭(千畳敷)、2の郭(3城)跡なども地形の上から推測できる。昭和49年(1974年)に発掘調査が行なわれた際、4世紀末から5世紀初頭の防御機能を有すると考えられる幅4メートル、深さ4メートルのV字溝が発見され、豪族の居館跡であることが明らかになっている。なお、国指定の史跡に認定されている。
アクセス[編集]
- 宇土駅から車で8分。