古麓城
古麓城(ふるふもとじょう)とは、現在の熊本県八代市古麓町上り山にかつて存在した日本の城である。八代城とよく誤解されるが別の城である。
概要[編集]
現在の八代市街の南東、球磨川の右岸に盛り上がる八丁山に存在した山城である。南北朝時代の建武元年(1334年)、鎌倉幕府討幕運動で後醍醐天皇に従って活躍した名和長年の子・義高は父の功績をもって天皇から八代荘の地頭に任命され、義高は執事の内河義真を八代に派遣して支配させた。この際、義真は八代支配の拠点として古麓城を築城したといわれている。
正平13年/延文3年(1358年)、名和義高の子・顕興は名和一族を率いて古麓城に入城し、ここを拠点として菊池氏と共に九州における南朝勢力の旗頭として、征西将軍の懐良親王を擁して各地を転戦した。しかし弘和元年/永徳元年(1381年)に菊池氏の隈府城が落城したのを契機として南朝勢力は次第に室町幕府に押されるようになり、窮した顕興は元中7年/明徳元年(1390年)から南朝の残党勢力の大半を古麓城に集めて徹底抗戦し、良成親王や菊池武朝と共に、2年後の南北朝合一まで反勢力の攻撃から守り通している。
以後、名和氏は古麓城を居城として勢力をふるったが、永正元年(1504年)の名和顕忠の時に人吉城の相良長毎の攻撃を受けて城を奪われて宇土城に敗走し、以後は相良氏の属城となる。だが、天正9年(1581年)に相良義陽が響野原の戦いで阿蘇惟将の家臣・甲斐宗運と戦って戦死すると、古麓城は島津義久の支配下となった。天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州征伐で肥後国の南半分を与えられた小西行長は古麓城を廃して新たに麦島城を築城することを決定したので、これにより古麓城は廃城となった。
この城は名和氏の時代から改造が進められており、八丁山の地形を利用して各峰上に築かれた飯盛、丸山、鞍掛、勝尾、八町嶽、相良氏の時代にも新城、高峰など天嶮を利用した改造が行われていたようであり、名和氏の時代に強大な室町幕府勢力を相手に2年も持ちこたえたのがうなずける堅城であった。現在の城跡にはうっそうと雑木林が茂って覆われている郭跡の平坦地や、土塁、空堀跡などが遺存しており、かつての堅城ぶりをしのばせている。また一帯が歴史公園として整備されており、散策道も開かれている。
なお、城跡の北西に松井氏の菩提所である春光寺があり、寺の脇から南東へ240段余りの石段を上った高台に名和氏が城の鎮守として創建した稲荷神社がある。この神社の境内からは北西に球磨川の流れと八代市街がまるで箱庭のように見渡せるし、その向こうには天候に恵まれていれば白く光る八代海を隔てて天草諸島を望見することもできる。