異国船打払令
異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)とは、江戸時代後期の文政8年2月18日(1825年4月6日)に出された江戸幕府の法令である。別名を外国船打払令(がいこくせんうちはらいれい)、無二念打払令(むにねんうちはらいれい)、文政の打払令(ぶんせいのうちはらいれい)などとも言われている。
概要[編集]
19世紀に入ると、日本近海に多くの外国船が現れて幕府の鎖国体制は大きく動揺した(フェートン号事件・文化露寇)。特に、この打払令が出される前年にはよりによって尊王攘夷のメッカとも言うべき水戸藩の大津浜に外国船乗組員が上陸して、水戸藩士に捕縛される事件まで起きていた。そればかりか、薩摩藩の西南諸島の宝島に来航したイギリス捕鯨船が食糧を求めて上陸するも拒否されて武力衝突に及び、島民側から死者が1名出る事件まで起きていた。
これらの事態から、当時の江戸幕府は遂に強硬処置を取るべく出したのが異国船打払令であった。この法令は簡単に言えば「異国船が日本近海に表れて上陸しそうであれば、余計なことを考えずに(つまり無二念)砲撃して追い返せ、打ち払え」というものであった。
ところが天保8年(1837年)のモリソン号事件で、この命令を忠実に実行したことが逆に大問題になった。モリソン号はマカオで保護した日本人漂流者を乗せて返還に訪れようとしていたからである。このため、当時海外の知識に通じていた高野長英、渡辺崋山らの批判が高まった。幕府は幕政批判などを理由にほとんど言いがかりの形で蛮社の獄を行なって弾圧し、これを抑え込んだ。しかし、同時期に隣国の清がアヘン戦争で大敗を喫したことから、当時の幕府老中・水野忠邦は天保の改革において遂に打払令の廃止を決断。天保13年7月24日(1842年8月29日)にかつて発令されていた薪水給与令に再度改め、漂着船に限っては薪水給与を認める柔軟路線に舵を切り直した。
水野忠邦の失脚後、幕政の実権を握った老中・阿部正弘は水戸藩主・徳川斉昭の意見を容れて1度、打払令の復活を検討したが、この法令はそもそも打ち払うということが相手側に開戦の理由を提供しているようなものであったことから反対意見も根強く、結局再復活はなされなかった。
なお、Wikipedia日本語版では「打払令が数年で廃止された」と書かれているが、実際は17年ほど効力を持っていたので、これは全くの出鱈目である。