大塩平八郎
大塩 平八郎 おおしお へいはちろう | |||||||||||||||||||||||||
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大塩 平八郎(おおしお へいはちろう)は、江戸時代後期の武士・儒学者で、大坂町奉行組与力。大塩平八郎の乱を起こしたことで知られている。名は後素(としもと)、字は子起(しき)、通称は平八郎、号は中斎(ちゅうさい)[1]。
生涯[編集]
父は大塩敬高。父の死後、家督と家職である与力を継承した。当時の大坂町奉行・高井実徳に重用されて吟味役にまで出世し、在任中は辣腕を振るって高井からも厚く信任されて名声を高めた。高井が奉行職を辞職する際に自らも辞職し、以後は私塾・洗心洞を開塾して同僚の与力や同心、さらに近隣の豪農やその子弟などに教授した。与力・吟味役の時代にその名声を高め、また平八郎自身文武両道で、槍の免許皆伝と陽明学を修めていたことから多くの塾生が集まったという[1]。
天保7年(1836年)、天保の大飢饉が大坂にまで及ぶと、東町奉行の跡部良弼に対して窮民救済を上申するも容れられず、そればかりか大坂にあった米を江戸に廻送して利益を得ようとする幕府の不正に激怒し、所蔵していた蔵書を売り払って貧民に施す一方、武器弾薬を製造し、弟子に軍事訓練を行わせた。翌年に遂に近隣の農村や塾生、仲間に対して挙兵の檄を飛ばした。しかし、塾生の1人が事前に密告したことから反乱計画は露見。追い詰められた大塩は計画を早めて挙兵し、大坂市街で騒乱を起こした。これが大塩の乱であり、反乱自体は戦死者が大塩方に3名という程度の小規模の反乱に過ぎなかったが、問題は元幕臣が幕府に対して反乱を起こしたという事実であり、驚愕した幕府は逃げ出した大塩とその養子・格之助を追跡。反乱からおよそ40日後に大坂市中を潜伏していたところを幕吏に発見されて取り囲まれて逃げられず、火薬に火をつけて建物もろとも爆死を遂げたという[1]。
人物像[編集]
非常に厳格な性格で商人からの付け届けは一切受け取らなかった。幾冊かの書籍を出版していたが、大塩平八郎の乱によって幕府に発禁処分を受けている。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]