上知令

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上知令(あげちれい、じょうちれい)とは、天保14年(1843年6月に、老中水野忠邦が行なっていた天保の改革の一環で断行された法令のことである。

概要[編集]

上知(上地)とは江戸時代江戸幕府大名旗本などの領地知行)を収公して幕領天領)にすることを指す。ただし所領の一部を収公して替地を与えるのが一般的で、替地の良悪で大名や旗本らの不行跡などの処罰に対する賞罰の意味合いも兼ねていた。改易の場合は領地の取り上げだが、この場合は減封あるいは領地を減らさずに実高を減らす手法といえる。江戸時代後期になって諸外国の外圧が高まると、越後長岡藩に対して経済海防上の対処から上知を行なった例もある。

水野忠邦が行なった上知令は江戸大坂周辺の幕領を増加するためにそのあたりを所領としていた大名や旗本に対して命じられた個別の上知令である。範囲は10里四方とされているが、法令には「最寄」とあるだけで具体的な指定がないため、水野はこれを機に諸飛び地整理なども行なって江戸や大坂周辺以外の大規模な所領再配置を行なおうとしていた可能性がある。

江戸時代前期ならば幕府権力は強く、「大名の鉢植え」などと言われて当たり前のように行なわれていたことだが、天保の改革の頃になると幕府権力の弱体化から諸大名や旗本の反対は根強く、水野は第12代征夷大将軍徳川家慶の領知権を盾に強権を発動しようとしたが、徳川御三家などが根強く反対し、また大坂平野郷などで百姓の反対運動が起こり、さらに天保の改革に参与していた老中・土井利位も反対派に回って水野と敵対したため、水野は幕府内で完全に孤立して上知令は事実上撤回された。

この上知令の失敗により水野忠邦は事実上政治生命を断たれ、閏9月に老中首座を罷免されて失脚し、天保の改革は挫折した。また領知権を行使できなかったことで、征夷大将軍の権威の失墜を示す一因にもなった。