多賀常則
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多賀 常則 たが つねのり | |||||||||||||||||||
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多賀 常則(たが つねのり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。浅井氏、織田氏、豊臣氏の家臣。
生涯[編集]
当初は北近江の浅井長政に仕えていたが、織田信長と対立した際に早くに信長に降っている。元亀元年(1570年)9月の時点で南近江の浅井・朝倉連合軍と対峙した際には、織田方として大津の穴太に在陣している[1]。
天正元年(1573年)8月、信長の朝倉攻めに従軍し、天正9年(1581年)9月の天正伊賀の乱にも従軍。さらに天正10年(1582年)の武田征伐にも従軍している[1]。『信長公記』では、武田氏滅亡後の4月3日に信長が甲府に入った際、信長から丹羽長秀や堀秀政らと共に暇を与えられて、上野国の草津温泉で湯治することを許されており、信長からかなり信任を受けていたと推定される。
同年6月2日に本能寺の変が起きると信長が死去したが、この変事における常則の活動は不明。ただし、その後は羽柴秀吉に属し、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは300の兵力を率いて参戦している。その後、秀吉の弟・秀長に仕えて大和国内で2000石の知行を与えられた[1]。
天正15年(1587年)2月、秀吉の命令による九州征伐が行なわれた際、秀長に従って九州に赴くが、その地で4月20日に病死したという。当時の日記である『多聞院日記』では同年5月7日条で「去月廿日、於西国多賀新左衛門尉病死了ト云々」とある。
後代の史料である『寛政重修諸家譜』では天正17年(1589年)、あるいは慶長2年(1597年)12月23日に死去したとしているが、これは誤伝ではないかと見られている。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
- 岡田正人 『織田信長総合事典』 雄山閣出版、1999年。 。
- 『信長公記』
- 『多聞院日記』
- 『寛政重修諸家譜』