土屋忠直
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土屋 忠直 つちや ただなお | |||||||||||||||||||||||||||||||
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土屋 忠直(つちや ただなお)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。上総久留里藩の初代藩主。土屋昌恒の子[1]。
略歴[編集]
武田勝頼の重臣で「片手千人斬り」の異名をとった勇将・土屋昌恒の子である[1]。生年に関しては天正5年(1577年)説なども存在する。父は忠直が生まれた年に織田信長により行われた武田征伐により戦死している。なお、武田家滅亡となった天目山の戦いの際、『理慶記』に以下のような記述がある。
「あまりあへなき事をいたしけるものや。さいごのことを葉をもかけやうつるものお」
これは、昌恒が死去する前日に従軍していた我が子を手にかけて、勝頼に自らの忠誠を示した際に勝頼が衝撃のあまりに述べた言葉といわれている。このことから、忠直には兄がいた可能性がある。
忠直は織田氏の探索から逃れるために母親に連れられて駿河国に落ち延び、信長没後に徳川家康に召し出されて仕官を許され、徳川秀忠の小姓となった。この際に秀忠の偏諱を許されて忠直と名乗っている。天正19年(1591年)、家康から相模国内に3000石の所領を与えられた[1]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは秀忠の軍勢に従って、信濃国の真田昌幸と戦っている。慶長7年(1602年)、家康から上総国久留里に2万石を与えられて、同藩主となった。慶長17年(1612年)3月24日に死去。享年31。跡を長男の利直が継いだ[1]。法名は円覚寺殿琴窓静閑大居士。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]