哀宗 (金)
哀宗(あいそう、承安3年8月23日(1198年9月25日) - 天興3年1月7日(1234年2月9日))は、金の第9代皇帝(在位:元光2年12月23日 - 天興3年1月7日(1224年1月15日 - 1234年2月9日))。女真名は完顔 寧甲速(ワンヤン ニンキャス)。漢名は完顔 守緒。
生涯[編集]
父は第8代皇帝・宣宗で3男。本来なら皇位継承の可能性は無かったが、皇太子だった兄らが早世したため立太子され、1223年の父の崩御により即位した。
しかし、この時代の金はかつての首都である中都をはじめとした華北の大半をモンゴル帝国のチンギス・ハーンに奪われ、さらにチンギスの腹心であるムカリの侵攻に遭ってこれらを何とか防ぐのがやっとの状態となっていた。1227年に西夏がチンギスに滅ぼされた後はモンゴル帝国の圧力を一気に受けることになり、しかもそれを見て南からは南宋までもが挙兵して侵攻してくる。国内では危機的状況の中で契丹族まで反乱を起こすなど、最早末期的な状態であった。
しかし、この絶望的な状況の中で1228年にはモンゴル帝国の名将・スブタイが率いる軍勢8000人をわずか400人の金軍を率いた完顔陳和尚が大昌原の戦いで撃退したり、衛州や倒回谷で勝利するなど、一時的に善戦した時期もある。しかし、1230年からチンギス死後にモンゴル帝国を後継したオゴデイによる第二次対金戦争が開始され、大規模なモンゴル帝国軍による攻勢が開始される。これに対して哀宗は完顔陳和尚に15万の軍勢を預けて迎撃させるも、この金軍は1232年に三峰山の戦いでトルイによって壊滅させられ、陳和尚も処刑された。
こうして追い詰められた哀宗は、オゴデイに対して和睦を求めるも拒否され、首都の開封はモンゴル帝国軍に包囲されて1233年に陥落。哀宗とわずかな皇族のみは南宋との国境に近い蔡州城にまで逃亡したが、この際に大半の皇族は殺し尽くされた。
そして逃げ込んだ先の蔡州も、モンゴル帝国と南宋の連合軍によって完全に包囲されて逃げられなくなった哀宗は、金の皇統を絶やさぬために一族の呼敦(末帝)に譲位し、間もなく自らは縊死した。享年36。