宣宗 (金)
宣宗(せんそう、大定3年3月13日(1163年4月18日) - 元光2年12月22日(1224年1月14日))は、金の第8代皇帝(在位:貞祐元年9月7日 - 元光2年12月22日(1213年9月22日 - 1224年1月14日))。女真名は完顔 吾睹補(ワンヤン ウトゥプ)、漢名は珣(じゅん)、のち従嘉(じゅうか)。
生涯[編集]
父は宣孝太子胡土瓦で、実は長男(庶長子)だったが母親が側室だったため、庶子だったことから後継者としては除外され、祖父の第5代皇帝・世宗が1189年に崩御した際には、異母弟の章宗が後継者に立てられた。
だが、章宗の死後に跡を継いだ衛紹王がチンギス・ハーンの侵攻にあって敗戦の罪を問われることを恐れた将軍の胡沙虎によって1213年に暗殺されたため、後継者として擁立されることになった。ただし宣宗には実権は無く、胡沙虎の完全な傀儡であった。
しかし、その胡沙虎も宣宗擁立から2か月足らずで、同じように敗戦の罪を問われることを恐れた部下の朮虎高琪により殺害されたため、宣宗は胡沙虎の傀儡から脱することができたが、続いて高琪に傀儡とされるだけだった。
このように金の宮廷が大混乱している間に、チンギス率いるモンゴル軍は南下を続けて華北を蹂躙し、1214年には遂に首都の中都を包囲するに至る。しかし、モンゴル軍内部で疫病が発生したこともあり、チンギスは宣宗に従妹の哈敦公主(衛紹王の娘の岐国公主)と童男500名を差し出すこと、多額の貢物を差し出すことという屈辱的な条件を出して和睦し、撤退した。
1215年、宣宗はモンゴルの脅威を恐れて南の開封に遷都し、これをチンギスから違約と見なされて再侵攻を受け、中都は陥落し、宰相の完顔福興も失った。これにより金は華北の地の大半を喪失した。
だが、その後のモンゴルは主力を西夏や西遼に向けたため、金に対する侵攻は限定的になり、滅亡は免れることができた。この間、宣宗は専権を振るう高琪を誅殺して親政を開始し、国力再建を図るために経済政策など様々な政策を実施するも失敗。また、後継者である長男や次男を失って次第に政治にやる気を失ったという。
1223年に61歳で崩御し、皇位は3男の寧甲速が継承した。
宗室[編集]
后妃[編集]
- 明恵皇后 王氏
- 元妃王氏
- 麗妃史氏
- 真妃龐氏
- 李氏