オゴデイ
オゴデイ(Ögödei、Ögedei、大定26年9月25日(1186年11月7日) - 太宗13年11月8日(1241年12月11日))はモンゴル帝国の第2代皇帝(カアン、大ハーン)。漢語表記では窩闊台、月闕台など。資料によっては、哈罕皇帝/合罕皇帝(カアン皇帝)とも書かれる(後述)。モンゴル帝国時代のウイグル文字モンゴル語文や前近代の古典モンゴル語文では 'WYK'D'Y Q'Q'N/Ögedei Qaγan、パスパ文字モンゴル語文では "ö-kˋö-däḙ q·a-n/Öködeï Qa'an 。ペルシア語表記では『集史』などでは اوگتاى قاآن Ūgtāy Qā'ān 、『五族譜』では اوُكَدى خان Ūkaday Khān などと綴られる。オゴタイ、エゲデイともいわれる。諡は英文皇帝(在位:1229年 - 1241年)。
生涯[編集]
即位前[編集]
父はチンギス・ハーン。母は正妻のボルテ。兄にジョチ、チャガタイ。弟にトルイがいる。
父・チンギスのモンゴル統一戦争の終盤頃から戦争に参加していた記録がある。金の遠征、チンギス・ハーンの大西征などに参加して武功を挙げた。武功ばかりでは無く、大西征の際のホラズム・シャー朝における首都・ウルケンジ攻略中に兄の2人が対立した際にはその調停役を務めて2人を仲直りさせ、自らが総指揮をとってウルケンジを攻略している。その功績により、ナイマンの旧領を父から与えられた。
即位[編集]
オゴデイは3男であり、兄にジョチとチャガタイがいる以上、後継者にはなり得なかった。1225年に長兄のジョチは病死していたが、次兄のチャガタイは健在であり、また弟のトルイも優秀で人望もあり、多くの戦役で武功を立てていたことから後継者候補に推す声も多かった。モンゴルでは末子が家督を継ぐという末子相続の慣習もあり、そのためトルイが有力候補であり、チンギスが亡くなると藍国に推されて国政を担当した。
チンギスは生前、大西征を開始する前に後継者をオゴデイにすると指名していたという。これはジョチとチャガタイは非常に仲が悪くてどちらを選んでも禍根を残す可能性があったためと言われる。また、オゴデイが能力よりも寛大温厚かつ調和的な性格の持ち主であったため、一族の結束を重んじたチンギスに見込まれ、後継者にするように遺言をしていた。このため、後継者をめぐり暗闘が繰り返され、チンギスの死から2年後の1229年、クリルタイが開催され、次兄のチャガタイがオゴデイの即位を支持したこと、トルイが継承していたモンゴル本土の所領をオゴデイに譲渡してハーンに推戴することで、第2代ハーンはオゴデイであることが決定した。
勢力拡大[編集]
オゴデイは父から受け継いだ巨大な帝国をさらに強大にするべく、勢力拡大に邁進する。
中国北部に残っていた金の征伐にまずは臨み、金の完顔陳和尚率いる軍勢に苦杯を甞めさせられたこともあったが、トルイを総司令官とした征伐軍が三峯山の戦いで金軍に大勝。これにより追い詰められた金の皇帝・哀宗を蔡州城まで追い詰めて自殺させ、さらにその跡を継いだ末帝も殺し、1234年までに金を完全に滅ぼして華北を制圧した。
さらに父が滅ぼしたホラズム・シャー朝の残党を率いるジャラールッディーン・メングベルディーを1231年までに完全に滅ぼして、現在のイランまでを完全に制圧した。その後も南宋・高麗・欧州・インドなど各地に遠征軍を派遣して勢力を拡大。これらのうち、欧州はオゴデイが死去する1241年までにはワールシュタットの戦いでポーランド王国軍を破って東欧まで制圧し、高麗の本土をほとんど制圧して国王を本土から追い出し、インド方面に対しても勢力をじわじわ拡大するなど順調であったが、南宋に関しては名将・孟珙の抵抗とモンゴル軍総司令官であった3男・クチュの急死によって頓挫してしまった。とはいえ、オゴデイの時代にモンゴル帝国は中国北部からロシア、ポーランドにまで至る大帝国に成長したのである。
内政に関しては父・チンギスの手法をそのまま受け継ぎ、父時代の重臣である耶律楚材や鎮海ら名臣を重用して中央政府機構の整備、徴税方法の整備を推進した。タルガチと呼ばれる統治官による属領統治や遊牧・農耕地域での政策の使い分けなどで広大な帝国の統治能力を挙げた。1235年には旧ケレイトの勢力圏・オルホン河畔に首都・カラコルムを建設し、この地を中心にジャムチ(駅伝)を設けて交通網を整備した。以後自らは首都に留まる事で東西の同時拡大戦略を実現した。
様々な問題の発芽と謎の急死[編集]
内政・軍事共に大きな成果を挙げていたオゴデイであったが、次第に問題が浮き彫りになりつつあった。
オゴデイの即位はそもそも次兄と末弟の支持があって実現したもので、強力な権力基盤は無かった。そのため、自らの味方を増やしたり徳を示したりするため、金銀などをよく散財した。また、帝国の勢力拡大には成功したが、相次ぐ遠征は軍事費の増大を招き、そして占領地を王族に分配したことでそこの王族が自立する傾向が目立ちだした。勢力拡大にしても急ピッチで進み過ぎたために占領地の支配機構の整備が追い付いておらず、そのため逆に財政が苦しくなりだしたことも事実だった。
このような中で1239年、帝国の財政難を解決するためにアブドゥッラフマーンを登用してしまう失策を犯す。アブドゥッラフマーンはオゴデイの信任を得ると露骨なまでに民衆から税を搾取して一時的に財政を再建したものの、これにより漢人の恨みを買うことになった。また、アブドゥッラフマーンの登用と同時に、それまで登用していた耶律楚材や鎮海からを遠ざけてしまった。
オゴデイは3男のクチュを後継者にしたいと考えていたが、クチュは早世したので、その息子すなわち孫のシレムンを後継者にしたいと考えていた。しかしシレムンでは若すぎるという問題があった。加えて、長兄・ジョチの次男・バトゥがロシア方面で絶大な勢力を誇っており、バトゥ自身も優秀であり、弟のトルイの長男のモンケも優秀で人望もあり、後継者には不足は無く、次第に後継者問題も発生しつつあった。オゴデイがバトゥに命じたヨーロッパ遠征の際に、長男のグユクがバトゥやモンケと対立したことも、後継者問題にさらなる火種を残すことになった。
このように自身の在位末期には多くの問題を残してほとんど解決も見いだせないまま、1241年に突如として急死した。56歳没。死因については度重なる深酒により健康を害していたとあるため、アルコール中毒が原因ではないかと思われる。オゴデイは非常に酒豪で、耶律楚材がいくら諌めても飲酒はやめなかったという。
オゴデイの死後、オゴデイが後継者について明確な意思を残していなかったため、モンゴル帝国は内紛の危機を迎えた。候補者はオゴデイの長男・グユクとトルイの長男・モンケであり、前者にはオゴデイの皇后であったドレゲネが、後者にはバトゥがついてそれぞれ暗闘を繰り返したが、ドレゲネは藍国の地位についてグユクの即位を強行し、1246年にグユクが第3代ハーンに即位した。
宗室[編集]
系譜情報については『集史』などイルハン朝、ティムール朝時代の資料に準拠。漢字表記は『元史』「后妃表」による。
妻妾[編集]
オゴデイの皇后のうち、大ハトゥンは4人いたと考えられている。
- 皇后
- その他側室
男子[編集]
息子たちについては『集史』『元史』[3]ではともに7人とする。