末帝 (金)
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末帝(まってい、? - 天興3年1月7日(1234年2月9日))は、金の第10代皇帝。金の最後の皇帝であり、姓名は完顔 呼敦(ワンヤン ホトン)という。
生涯[編集]
金の初代皇帝の太祖・阿骨打や第2代皇帝の太宗・呉乞買の兄の子孫と言われるが、詳細については不詳。ただ記録を見る限りは遠縁の皇族であったのは事実である。
第9代皇帝・哀宗に従って武将として各地を転戦する。1232年に首都・開封がモンゴル帝国軍により陥落すると、多くの家臣や武将が離反する中で彼だけは哀宗に付き従って、共に蔡州に逃れた。しかし、逃げ延びた蔡州もモンゴル帝国軍、南宋軍の包囲を受けて城内が飢餓状態に陥る中で、哀帝は金の皇統を守るために皇族で信頼していた呼敦に譲位することを宣言すると自らは縊死した。
こうして皇帝となった呼敦であるが、すぐにモンゴル軍によって蔡州を攻められて捕縛されて処刑された。これにより、金は10代119年をもって滅亡となった。
呼敦の在位はわずか半日にも満たず、これは中国史上の皇帝において歴代最短の記録である。また殺害されているため諡号や廟号は存在せず、金の最後の皇帝ということで歴史上では「末帝」(末の帝の意味)と呼ばれている。