全日本プロレス
全日本プロレスとはジャイアント馬場が興した日本のプロレス団体である。正式名称は全日本プロレスリング。
概要[編集]
日本プロレスを退団したG馬場が、1972年9月9日に設立を発表した。日本テレビは即対応し、10月7日土曜8時からの試合中継を決定した。
紆余曲折はあったが、今では新日本プロレスに次ぐ、二番目に古い老舗のプロレス団体である。
歴史[編集]
G馬場は海外との太いパイプを持ち、ドリー・ファンク・ジュニア、その時のNWA世界王者などの有名外国人レスラーがやって来た。注目の若手、ジャンボ鶴田も入団し即エースになった。手薄な日本陣営にはザ・デストロイヤーが助っ人として参加。
テレビ中継は、土曜8時で『8時だヨ!全員集合』の裏番組があって苦戦していた。1973年11月に視聴率テコ入れのためにアントン・ヘーシンクをプロレス転向させる。視聴率は最高の数字だったが、ヘーシンクのプロレスへの不慣れさが露呈した。同年10月にはザ・デストロイヤーが『金曜10時!うわさのチャンネル!!』にレギュラー出演。ドイツ軍のヘルメットをかぶってお茶の間を笑わせた。
企画したシリーズ、オープン選手権やチャンピオンカーニバル、オープンタッグリーグ戦、最強タッグリーグ戦等が当たり、ブッチャーとファンクスの抗争はドル箱カードになった。また、メキシコからはミル・マスカラスが来日し、子供たちの人気を集めた。マスカラスのテーマ曲「スカイ・ハイ」も相乗効果で盛り上げた。なおオープン選手権は、しつこく対戦を迫るアントニオ猪木に対する逆挑戦状である。
1979年の4月からテレビ中継が土曜日の夕方5時半になる(関東地区)。そこでやっと視聴率が回復した。だが、大相撲中継のある月は、視聴率合戦で負けてしまっていた。特に1981年1月は千代の富士ブームの真っただ中だったせいもあり、視聴率は大差をつけられてしまった。
1981年の5月にアブドーラ・ザ・ブッチャーを新日本プロレスに引き抜かれる。馬場は報復としてタイガー・ジェット・シンとスタン・ハンセンを引き抜いた。1982年に馬場はハンセンとのシングルマッチを行った。
同時期、馬場は全日本プロレスの社長から降り、日本テレビの松根光雄が社長になり、マッチメイカーが佐藤昭雄に代わった。そして団体のエースが馬場から鶴田になり、鶴田はインターナショナルヘビー級王座とAWA世界王座を立て続けに取った。なお馬場はこの時AWAに挑戦する気まんまんだったという。
しばらく外国人天国が続いていたが、1985年、長州力率いる維新軍団が新日本プロレスリングから離れて全日本プロレスに参戦し、選手が飽和状態となって外国人選手の来日が少なくなった。長州参戦の前からゴールデンタイムに戻す話が出ていて、長州の参加が追い風になった。同年10月夜7時に時間帯が変わった。馬場はメインにはあまり出ず、解説者のポジションを得た。
その後、野球中継との絡みで放映時間が移動するなどがあり、視聴率も落ち込んでいった。そこで登場したカンフル剤が、輪島大士のプロレス転向だった。全日本プロレスの中堅選手だった石川敬士がパイプ役となった。輪島のデビュー相手はシンで、視聴率は土曜7時の最高記録をマークした。
やがて長州力が古巣に戻ると、天龍源一郎が一念発起し、天龍革命を始めた。
天龍源一郎と阿修羅原のタッグが人気を集め、天龍革命は一大ムーブメントを巻き起こした。
その後、天龍はSWSに引き抜かれて、全日本プロレスはピンチに陥ったが、タイガーマスクを辞めた三沢光晴と小橋健太、川田利明、田上明による四天王プロレスで盛り返した。
だが残念なことに馬場と鶴田があいついで死去した後に、フロントがもめて大多数の選手が退団しプロレスリングノアを旗揚げする。残ったのは渕正信と川田だけだった。
参考文献[編集]
- 福留崇広 『テレビはプロレスから始まった 全日本プロレス中継を作ったテレビマンたち』、2022年10月22日。