阿修羅原

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阿修羅原(あしゅらはら、本名・原進、1947年1月8日2015年4月28日)は、長崎県出身のプロレスラー

概要[編集]

1976年9月、ラグビーの世界選抜のメンバーに日本人として初めて選ばれたという実績の持ち主で、鳴り物入りで国際プロレスに入団。作家の野坂昭如がリングネームを命名した。

プロレスラーとしてのトレーニング期間が短いながらも試合をこなし、藤波辰爾に「あのキャリアであの試合の組み立てはとてもできない」と言わしめたぐらいの逸材だった。

ミレ・ツルノからWWUジュニアヘビー級王座を奪い、その防衛戦で繋いでいたが。藤波との対戦で負けてしまい、直後にヘビー級に転向する。転向後はなぜかビザが降りず渡米が延び延びになっていた。ビザが降りるとカナダへ向かいインディアンレスラーとして転戦するが、所属団体の国際プロレスが崩壊する。

国際消滅後は全日本プロレスに参戦して、全日本正規軍に参加。全日本プロレスの選手とは、四つに組む組み方から技のタイミングまで違っていたので、中々伸び悩んでいた。唯一光る時期は、過去の同僚である国際プロレス出身の鶴見五郎と試合をした時であった。

身長的にちょうどスタン・ハンセンの腕の位置に首が来るため、シングルマッチではハンセンとよく当たり、ラリアットに何度も沈んでいる。ハンセンとの試合では、途中から反撃していい所まで行くのだが、当時の原の必殺技がジュニアヘビー級時代に開発した物ばかりで、スーパーヘビー級のハンセンにそれらを使う機会はなく、ラリアットに成すすべなく沈んでいた。

原がラリアットを受ける時は一回転してうつぶせのまま倒れ、ハンセンの力強さを印象付けた。

しばらく燻っていたが、ある時期ヒットマンと名乗り、迷彩シャツを着こみ、誰ともつるまずにシングルマッチを淡々とこなすようになり、原の使用したラリアットは「ヒットマンラリアット」と呼ばれるようになる。しばらくは全日本プロレスとジャパンプロレスの中堅どころを総なめにしていた。天龍源一郎とは数度シングルで対戦し、そのどれもが名勝負だったため、お互いを認め合うようになりタッグ結成の話が出た。以後、天龍とのタッグ龍原砲でブレイクする。人気絶頂期に借金問題で全日本プロレスを解雇された原が天龍と邂逅したのはSWSそしてWAR (プロレス団体)だった。

WARを経て引退し、現在は故人である。

余談[編集]

若い頃はイケメンで、和製チャールズ・ブロンソンと呼ばれた。

オリジナルソングのテーマ曲を付けて売り出そうとしていたが、銀色のマントはカッコ悪いとの声が多かった。

キャリア後半では「源ちゃんと対戦して白い灰になって燃え尽きたい」と語っていた。

得意技[編集]

  • ヒットマン・ラリアット:「自分は上背がないが、当てるように工夫している」とインタビューで語っていた。
  • サンドイッチ・ラリアット(天龍源一郎とのタッグ)
  • サンドイッチ・延髄斬り(天龍源一郎とのタッグ)
  • ロープニ段目からの雪崩式ブレーンバスター

タイトル歴[編集]

  • WWU世界ジュニアヘビー級選手権(ミレ・ツルノから奪取)
  • アジアタッグ選手権(マイティ井上とのコンビ)
  • PWFタッグ選手権(天龍源一郎とのコンビ)

レコード[編集]