ジャンボ鶴田
ジャンボ鶴田(ジャンボつるた、本名・鶴田友美、1951年3月25日‐2000年5月13日)は、山梨県出身のプロレスラー。
概要[編集]
長身を生かしてバスケットボールで活躍。中央大学ではバスケではオリンピックに出られないと知り、レスリング部に転向した。その少し前に柔道部を打診して、学生時代のミスター・ポーゴと遭遇している。
無事、オリンピックに出場し、その後「全日本プロレスに就職します」の名言と共に全日本プロレスに入門。アメリカのファンクス道場でスタン・ハンセンやテッド・デビアスとトレーニングに精を出す。4つのスープレックスを引き下げ凱旋帰国。若大将としてフレッシュな魅力でファンを集める。若者らしくギターを弾いてリサイタルもしている。UNヘビー級選手権を獲得したり、ジャイアント馬場と組んでインタータッグ王者になったり、順風満帆化に見えたが、NWA世界戦では「あともう一歩の所で勝てない」=善戦マンという有難くないあだ名を頂戴した。
馬場の後継者になるためには、アントニオ猪木の持つ殺気を身につけねばならなかったのだが、本人がとにかく余裕がありすぎたのが欠点であった。そのままズルズルいくかと思ったが、世界王座の一角であるAWAヘビー級王座を戴冠し、これでジャンボ時代到来かと思ったが、チャンピオンロードは過酷すぎた。
谷津嘉章との五輪コンビで天龍源一郎、阿修羅原の龍原砲とも抗争をしたが、相手側が光っただけだった。
ジャンボ鶴田が光り輝いたのは、長州力との一騎打ちで60分フルタイムで闘い、長州はバテバテだったのだが、鶴田はその後飲みに行ってしまったという底知れぬ体力である。その怪物ぶりは四天王との闘いでいかんなく発揮された。鶴田が本気を出すと誰もかなわなかった。
しかし、その怪物も病魔に倒れ、プロレスからリタイアし学士になる。肝炎の完治を願ってフィリピンで受けた肝移植手術が失敗し帰らぬ人となった。
余談[編集]
試合中にこぶしを突き上げて「おー」と見得を切るのだが、これがファンの間から不評で馬場も「見得を切ってる暇があるなら技をかけろ」と言われているにもかかわらずやめなかった。
若手時代は星条旗のようなタイツをはいていた。ライバルのキム・ドクはフランス国旗のようなタイツだった。
日本テレビもジャンボ鶴田の売り出しに一役買い。何度も試合動画を流してはバックにバンザイの「チャイニーズ・カンフー」を流していた。