信濃村上氏

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信濃村上氏(しなのむらかみし)は、戦国時代まで北信濃を支配した氏族のことである。戦国大名となり、武田晴信を2度破った村上義清で著名である。

概要[編集]

平安時代末期、嘉保元年(1094年)に源仲宗の子・顕清が村上郷に流罪とされた後、その子・為国の時に村上姓を称したのが起源といわれている。保元の乱の際、村上氏は崇徳上皇に属した。源平合戦で当時の村上基国、信国兄弟は源氏に味方し、源義経に従って戦功を立て、鎌倉幕府の時代になると御家人になり、村上一族は北信濃に多くの一族を輩出した[1]

南北朝時代になると、村上義光が現れて南朝に味方し、後醍醐天皇皇子である護良親王に属して忠臣伝説で知られている[1]

戦国時代になると北信の葛尾城主(現在の長野県埴科郡坂城町)となり、この地方で急速に勢力を拡大して戦国大名として君臨した。特に村上義清は名将で、甲斐国武田信虎と手を結んで天文10年(1541年)に海野氏真田幸隆らを追放して北信をほぼ支配下に置いた。しかし、間もなく信虎が嫡子・晴信により追放され、晴信により信濃国攻めが行なわれると甲斐武田氏と敵対。義清は甲斐武田家より劣る勢力であるにも関わらず、天文17年(1548年)の上田原の戦い、天文19年(1550年)の砥石崩れの2度にわたって武田軍を大いに破った。だが、義清がかつて追放した真田幸隆が晴信の家臣となって村上家中に謀略をかけると、たちまち家中は分裂して内紛状態となり、この間隙を晴信に突かれて義清は天文22年(1553年)に遂に北信から追われ、越後国長尾景虎の下に落ち延びた[1]

以後、義清は景虎の家臣となり、根知城主に任命されて晴信(信玄)と戦った。川中島の戦いは義清が晴信に追われて景虎の下に逃げ延びた結果、発生したものである。しかし、決着はつかずに義清は宿敵・信玄が死去する少し前の元亀元年(1573年)1月に死去した。家督は子の国清が継ぎ、上杉氏の家臣としてなおも存続して本能寺の変織田信長が死去した後、一時的だが北信の領主として復活している。以後、家名は存続しているが、その行方は定かではない。

系譜[編集]

<平安時代後期‐南北朝時代>   ※ 太線は実子、細線は養子。
  源頼清
  ┃
  仲宗
   ┣━━━┓
  顕清    仲清
   |   ┣━━━┓
  為国    盛満    宗清
      ┃
     村上為国
   ┏━━━╋━━━┳━━━┳━━━┓
  信国    泰遠   安信    経業    基国
   ┃   ┃   ┃   ┃   ┃
  信実    信次   信村    頼時    惟基
      ┃   ┃
          惟信   胤信
   ┏━━━━━━━┻━━━━━━━┓
  信泰                            義康
   ┣━━━┳━━━┓        ┃
  義光    国信   信貞           房義
   ┣━━━┓   ┣━━━┓   ┃
  朝日    義隆   師国    師貞    義久
              ┃        ┃
                  満信           貞代
                              ┃
                                  宗康
<室町時代中期‐戦国時代>
 村上頼清
  ┃
 系不詳
  ┃
  政清
  ┃
  政国
  ┃
  顕国
  ┃
  義清
   ┣━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓
  義勝    義利   義照    義邦    国清(山浦景国)
                              ┃
                               山浦上杉家
<近世越後村上藩主家>
 系不詳
  ┃
 村上頼勝(義明)
  |
  忠勝

脚注[編集]

  1. a b c 森岡「日本名字家系大事典」P545

参考文献[編集]