佐久間レールパーク
佐久間レールパーク(さくまレールパーク)は東海旅客鉄道が静岡県浜松市天竜区佐久間町(開園時は磐田郡佐久間町)半場に設置し、運営されていた鉄道車両博物館である。
概要[編集]
1991年4月に飯田線中部天竜駅構内に開設。設置場所は中部天竜機関区が所在していた場所である。屋内展示室には各種模型や実物部品、写真展示などがあった。なお屋内展示室は乗務員宿舎の一角を利用して設置されていた。
屋外では、留置線を使用して鉄道車両を展示。営業線と繋がっており、特別展示として美濃太田車両区に保管されていた車両を展示することもあった。なお、中部天竜駅ゆかりの三信鉄道デ301形(小湊鉄道キハ5800形気動車)は当時未解体だったが、帰還を果たせなかった。
2009年11月1日を以てリニア・鉄道館へ発展的解消を遂げる形で閉園。展示車両の大半はリニア・鉄道館へ移転したが、移転対象外となった車両は解体された。最終年度はアクセス列車として佐久間レールパーク号が運転された。
保存車両[編集]
特記ない場合、リニア・鉄道館へ移転収容されている。
- 前頭部のみ。現役時代はYk22編成に連結されており、引退後の1998年8月より展示。閉園後、総合車両製作所に引き取られ、同社横浜事業所に非公開保存されている。
- 山岳路線向けのED61形に1軸式中間台車を増設し、軸重制限の厳しい飯田線向けとした機関車。1979年に飯田線でお召し列車が運転された際の予備機であり、除籍後は浜松工場で構内入換機械として利用されていた。2010年解体。
- 31系電車のモハ11形に両側運転台化を施したもの。既設運転台側は非貫通構造だが、増設運転台側は貫通構造である。2010年解体。
- 京阪神地区の急行電車用として製造された流電の愛称で親しまれた車両。晩年を飯田線で過ごし、ファンから人気を博した。
- 72系電車の台枠から下を流用し、115系300番台に準じた新製車体を組み合わせた車両。運転台部分のみシミュレータとして利用され、塗装は119系東海色と同じものを纏っていた。閉園後に廃棄されてしまった模様。
- 湘南電車の愛称で親しまれた。
- 乗務員の教習用として室内に機器類を設置した教習車。153系電車のサハシ153-15から改造され、形式こそ165系だが現存する最後の153系電車であった。2010年解体。
- 本格的な液体変速式気動車として量産された気動車。国鉄で廃車後、茨城交通に譲渡され、同社湊線で活躍していた。
- 500馬力の大出力エンジンを搭載し、中央本線の特急しなの等で活躍した特急型気動車。JR四国で廃車後、中間車のトップナンバーであるキハ180-1とセットでJR東海が譲り受け、先頭車のキハ181-1が展示されていた。外観は国鉄時代のものを再現しているが、座席は四国時代に換装された回転リクライニングシートである。
- 荷重10トンの荷物車。
- 35系客車の緩急車。表記はオハフ34834で、等級を示す赤帯と記号が入れられていた。2010年解体。
- オハ35 206
- 35系客車。こちらはぶどう色一色で、等級を示す赤帯・記号がない。
- 戦後に進駐軍向けに製造されるも、注文キャンセルにより一般車として運用された1等寝台車。晩年は長期工事現場の作業員宿舎となる工事車として運用され、その名残があった。
- 軽量構造を採用した軽量客車。マイネ40同様、こちらも晩年は工事車として運用されていた。
- 建築限界測定車で、通称オイラン車。
- 脱線事故等の復旧作業用として製造された操重車(クレーン車)。チキ6132はクレーンを支える控車。2010年解体。
閉園後[編集]
車両搬出[編集]
移転する車両は中部天竜駅周辺を通過する県道1号の途中に狭隘区間があるなどの道路事情の悪さから、車体が小型のED11形と0系のカットモデル以外陸送を行わず、鉄路輸送が実施された。
輸送に際し、牽引車として抜擢されたのはキヤ97系R101編成。R101編成はロングレール輸送車のため13両編成を組んでいるが、レールパークからの車両輸送はキヤ97-201・キヤ96-2・キヤ97-202の3両のみを使用し、編成中間に輸送対象車両を連結。終電後の深夜に中部天竜から豊川駅まで鉄路輸送し、豊川からは日本車輌製造豊川製作所へ搬入。日本車輛からはトレーラーでJR名古屋工場まで輸送した。
駅周辺[編集]
中部天竜駅の所在地だった佐久間町は2005年(平成17年)に浜松市に合併。合併後に閉園したため、駅周辺は観光の核を失った格好となった。佐久間ダムへ臨時運行していた公共交通機関も無くなり、2011年(平成23年)には、『浜松市さくま郷土遺産保存館』も閉館され、列車から見える看板があった飲食店も閉店するなど、観光地の面影は年ごとに薄れてしまっている。