ジョージ・H・W・ブッシュ

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ジョージ・H・W・ブッシュGeorge H. W. Bush1924年6月12日 - 2018年11月30日)は、米国(アメリカ合衆国)の第41代大統領である(在任:1989年 - 1993年)。ホワイトハウスに米国の伝統的な価値をささげ、米国を親切で思いやりのある国に転換させた。長男の第43代大統領と同名であるため、Daddy Bush(おとうちゃんブッシュ)、Senior Bush(シニア・ブッシュ)、まれにPapa Bush(パパブッシュ)などと言われることがある。米ソ冷戦終結、湾岸戦争などで知られる大統領である。

なお、フルネームは「George Herbert Walker Bush」であるが、公式人物紹介のホワイトハウスのサイトですら「George H. W. Bush」となっており、新聞記事やインタビュー等をみても、実際には、フルネームはほとんど使われていない[1]

妻はバーバラ・ブッシュ。子に長男のジョージ・W・ブッシュ(第43代米国大統領)、次男にジェブ・ブッシュ(元フロリダ州知事)らがいる。

経歴[編集]

若い頃[編集]

1924年6月12日、アメリカ東部のマサチューセッツ州ミルトンで投資銀行家(後に上院議員)の父プレスコット・シェルドン・ブッシュ、母ドロシー・ウォーカー・ブッシュの次男として生まれた。少年時代はコネティカット州グリニッジで育ち、私立学校グリニッジ・カントリー・デイ・スクール(マサチューセッツ州、(幼児-9年生))に入学する[2]1938年にマサチューセッツ州 アンドーバーのフィリップス・アカデミー(Phillips Academy)に進学し、1942年に卒業する[3]

大学野球では下位打線ながら守備に定評があり、主将としてチームをまとめたという。

軍隊[編集]

1942年から1944年まで海軍に志願して雷撃機のパイロットとして入隊し、戦争中58回の飛行による戦闘任務を果たした。1944年9月2日に日本軍に小笠原諸島父島沖で撃墜されたが、ブッシュの飛行機は火災に包まれたが、パラシュートで脱出する前まで飛行を続け、敵の無線基地攻撃に打撃を与え、任務を果たした。その後、海上を漂っていたところを味方に救助されて助かった。ブッシュは勇敢な飛行により殊勲飛行十字章を受ける。海軍中尉に昇進後に退役した[4]

1945年にはバーバラ・ピアス(バーバラ・ブッシュ)と結婚する。

産業界[編集]

家族の伝統にしたがい、イェール大学に入学[5]し、1948年に卒業した。在学中、秘密結社スカル・アンド・ボーンズに加入したが、後年「エリート主義の表れ」と評された。

卒業後は一転して父の農場で働くことを拒否してテキサスに移り、石油の営業に従事する。

1951年、ブッシュ=オーバビ開発社の共同経営者となり、1953年、ザパタ石油会社、1954年、ザパタ・オフショア会社など、40歳になるまでに億万長者となる。

政界入り[編集]

1959年からヒューストン共和党の活動を開始。1964年の民主党の上院議員ラルフ・ヤーボロー議員に対抗して出馬したが、落選する。しかし1966年には下院議員に当選し、1967年から議員となった。しかし民主党リンドン・ジョンソン大統領の公民権法を支持したため、多数の脅迫電話を受けることになった。しかしブッシュは「国のために戦いベトナムから帰還した兵士が黒人という理由で差別されるのは賛成できない」と反感むき出しの聴衆に毅然と演説を行なった。

1970年には上院議員を目指したが議席を失う。

1971年リチャード・ニクソン政権の国連大使に就任した(1972年まで)。1973年ウォーターゲート事件が起こると、ニクソンから依頼される形で共和党全国委員会委員長となり、ニクソンを支持し続けた。1974年ジェラルド・R・フォードの下で、中華人民共和国への特命全権公使(米中連絡事務所所長)、1976年には中央情報局CIA)長官となる。ジミー・カーター政権になるとブッシュは辞任し、テキサスに戻る。

大統領選挙[編集]

1980年の大統領選挙でブッシュは共和党推薦で出馬したが、経済政策でレーガン候補に後れをとり、大統領選挙の共和党候補指名争いでレーガンに敗れた。しかしその後、ロナルド・レーガン候補はブッシュを副大統領候補として指名し、カーターを破り当選した。1984年の選挙で再選され、ブッシュは2期8年(1981年から1989年まで)をレーガン大統領の下で副大統領として過ごした。

1988年の大統領選挙に候補者として出馬し、ダン・クエ-ル副大統領候補とともに選挙を戦った。 共和党内では中道派(穏健派)とされるブッシュは、いわゆる保守派とは一線を画していた。そのため世論から「腰抜け」とのレッテルを張られていた。民主党候補者のマイケル・デュカキス候補に対しネガティブキャンペーンを選挙手法として利用した。

選挙戦の当初はデュカキス候補のリードであった。二回目のテレビ討論(10月13日)においてCNNテレビキャスター、バーナード・ショーが挑発的な質問「あなたの奥さんがレイプされて殺害されたとしたら、その犯人を死刑にすることに賛成しませんか」と死刑廃止論者のデュカキス候補に投げかけ、「いいえ、反対です。私が生涯を懸けて死刑に反対してきたのはあなたもご存じでしょう」との回答により冷酷な人間というイメージが広まってしまった[6]

一方ではブッシュは予備選挙では「私の口に新税はない」("Read my lips, No new taxes!")というフレーズを繰り返し、共和党保守本流派から信任を得るとともに、レーガン人気を利用することにより圧倒勝利を得て、第41代アメリカ合衆国大統領に就任した。 現職副大統領の大統領就任はここ100年余りで初めての出来事であった。

就任後[編集]

大統領就任式でブッシュが「kinder、gentlerな社会を作る」と演説したことはよく知られている。ブッシュの政治姿勢が読み取れる。 大統領選で継承を訴えた経済政策では就任後は「レーガン保守革命」と距離を置くようになったが、穏健路線に変更するも、安全保障ではレーガン路線を継承した。1989年ベルリンの壁の崩壊に象徴される東欧諸国の民主化革命を経て、マルタで米ソ首脳会談を開催し、新時代の到来を確認した。 また議会の民主党とも協力して、長年の懸案であった大気清浄法の改正を1990年に成立させたことは、ブッシュ政権の重要な貢献であった。「身体障害をもつアメリカ人法(ADA)の成立も重要な意味がある。

1989年12月20日、ブッシュ政権はノリエガ将軍を打倒するため2万4500人の兵力(5万7,384人とも言われる)を投入し、パナマ侵攻を行った。ブッシュはアメリカに流入する麻薬を遮断するためパナマに侵攻を行ったと主張した[7]

大統領になると連邦政府の財政赤字問題は「柔軟な凍結」程度では解決できず、ブッシュ大統領は1990年に増税を余儀なくされた(OBRA90)。 1991年1月からの湾岸戦争におけるイラク空爆やクエート解放の業績により、国内の支持率は一時90%にまで高まった[8]。またミハイル・ゴルバチョフソ連大統領と米ソ首脳会談を行い、史上初となる戦略核兵器を削減する米ソ第1次戦略兵器削減条約(START1)に調印した。

1992年の大統領選挙では、再選を期して出馬する。しかし前回の大統領選で「絶対に増税しない」と公約しながら、財政赤字による国家破綻を避けるために1990年に増税を含む予算調整法を成立させたため、党内右派から「公約を破って増税したブッシュ」への風当たりは強く、共和党保守派の信頼を失っていたことが伏線となる。対立候補である当時は無名であったアーカンソー州知事のビル・クリントン候補の若さ、演説のうまさ、経済重視の姿勢が受けて当選し、ブッシュは再選を果たせなかった。

退任後[編集]

90歳の誕生日には落下傘を背負い、スカイダイビングを披露するなど壮健をアピールしていた。だが2015年7月頚椎を骨折して一時入院する。近年は高齢もあって体調不良でたびたび入院していた。2017年ドナルド・トランプ大統領が就任した際には「よく知らないが、ほら吹きなのが知っている」と述べるなど批判的で、同年1月に行なわれたトランプの大統領就任式も健康上の理由で欠席した。

2018年4月に愛妻・バーバラが92歳で死去する。その後を追うように11月30日、ヒューストンの自宅で亡くなった。没年94歳[9]

安倍晋三総理大臣は、ブッシュが日本を二回訪問し、天皇とテニスをするなど日米親善へ貢献したこと、その高潔な人柄を称える談話を発表した[10]

葬儀は2018年11月5日、ワシントンで行われ、バラク・オバマ前大統領夫妻、ビル・クリントン元大統領夫妻、ジミー・カーター元大統領夫妻等の大統領経験者が参列し、ドイツアンゲラ・メルケル首相やポーランドアンジェイ・ドゥダ大統領、日本の福田康夫元首相が参列した[11]。テキサス州でも葬儀が行われ、ジョージ・ブッシュ大統領図書館の敷地に埋葬される。

米国トランプ大統領は、ブッシュ元大統領が亡くなったことを受け、2018年12月5日(水)を「国民追悼の日」として休日にすることを決めた[12]

人物[編集]

  • ブロッコリー嫌い(fellow broccoli haters)」として有名であったが、人々はそのことに好感を持ったといわれる[13]。子供の頃、母親がブロッコリーを食べさせようとしてから嫌いになったという。
  • ゴルフではいつも伝説的なスピードゴルフであった。次のイベントに向かうために、早くプレーをし、1日を無駄に過ごすべきではないと教えたと息子のジョージ・W・ブッシュは追悼演説で語る[14]

評価[編集]

  • 息子のジョージ・ブッシュ - 「高潔な人格の持ち主であり、望みうる最良の父」[8]
  • ドナルド・トランプ大統領 - 「健全な判断と常識、冷静な指導力で世界を冷戦終結に導いた」。
  • ウィリアム・F・ハガティ駐日大使は、「ジョージ・H・W・ブッシュ元大統領のリーダーシップ、謙虚さ、公務への誠実さは、私だけでなく多くの人に影響を与えました」と述べた[12]

参考文献・注釈[編集]