湾岸戦争

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湾岸戦争(わんがんせんそう、英語:Gulf War、Persian Gulf War、The First Gulf War)は1990年8月2日イラクによるクウェート侵攻をきっかけに、国際連合多国籍軍(連合軍)の派遣を決定し、1991年1月17日にイラクを空爆して始まった戦争である。

概要[編集]

1990年8月2日、サッダーム・フセイン率いるイラク軍が隣国クウェートへ約6万の兵力で侵攻し、ダスマン宮殿はじめ政府機関を接収し、アラー・フセイン・アリー陸軍大佐を首相として「クウェート暫定自由政府」を樹立した。1990年8月4日、同政府は「クウェート共和国」の樹立を宣言した。

クウェートの第13代首長ジャービル・アル=アフマド・アッ=サバーハサウジアラビアへ亡命した。同日、国際連合緊急安全保障理事会を招集して、イラク軍の即時無条件撤退を要求する安保理決議660を採択した。イラクは安保理決議に従うことを拒否し続けた。ジョージ・H・W・ブッシュ大統領は、同盟国のサウジアラビアも侵略されるおそれがあると危惧、サウジアラビアにアメリカ軍を駐留させた。一方、イラクは8月25日、クウェートを19番目の州にすると宣言し、クウェートに取り残された外国人を文字通り「人間の盾」として監禁し始めた。非人道的行為の数々に世界から非難が集まり、結局外国人捕虜は全て解放されたが、結局イラクが国連の撤退勧告に応じることはなかった。

1991年1月13日、ハビエル・ペレス・デ・クエヤル国連事務総長がイラクを訪問して最後の調停を行うが、ついに不調に終わる。1月17日、米国をはじめとする多国籍軍は、イラクに対する武力行使に踏み切った。この多国籍軍はアメリカに加え、イギリスフランスエジプトサウジアラビアをはじめとするアラブ合同軍が参加していた。

多国籍軍は「砂漠の盾」作戦(Operation desert shield)と呼ばれる空爆作戦を実施、クウェートに軍事力を傾倒していたイラクは慌ててイラク国内の守備に回った。その傍でフセインは「イスラーム対異教徒」という宗教戦争の構図を築くことを目論み、イスラエルなど周辺諸国にミサイルを放つ。しかしイスラエルはこの挑発に乗らず、イラクは「不法な侵略者」として全世界を敵に回すことになってしまった。

2月24日、イラク南部の軍事施設を根こそぎ破壊し尽くした空爆が終わり、「砂漠の剣」作戦と言われる地上戦が開始された。イラク軍はすぐに総崩れとなり多数のイラク兵が投降した。僅か2日後にフセインはイラク軍に撤退命令を発し、2月26日、多国籍軍がクウェート市内に入り、クウェートは解放された。

1991年2月28日、多国籍軍の攻撃が停止されて、戦争は終結した。3月3日に暫定的な停戦協定が結ばれたが、イラクの軍事力はほとんど保持された上、懸念されていた国際原子力機関の査察にも頑なに応じなかった。フセイン政権を崩壊まで追い詰めなかったことは、ブッシュ大統領が一部の保守派から批判を浴びる原因になった。

湾岸戦争後[編集]

クウェートのサバーハ家支配が内外から批判されたため、社会改革に着手した。議会を再開し、女性への参政権付与などを行う。

湾岸戦争陰謀説[編集]

この戦争についていくつかの事例から「アメリカによって仕組まれた戦争でイラクはのせられた」とする意見がある。そのような説の根拠はおおよそ以下のようなものである。

  • 1990年7月25日にイラクがクウェートの併合を示唆した際、アメリカの駐イラク特命全権大使のエイプリル・グラスピーは「国境問題に介入するつもりはない」と発言。しかしこれはアメリカが第3国間の領土問題に対する姿勢としては普通のものである。[1]
  • 1990年7月31日のイラク・クウェートによるジッダ会談において、クウェート側がフセイン大統領が私生児であることを揶揄するなど侮辱的な態度を取ったとされる。ただし、イラク軍のクウェート侵攻の準備はこの日より以前に開始されているし、この会談の席でイラクは、領土割譲を要求してクウェート側を怒らせている。
  • 1990年10月、クウェートの少女がアメリカ議会において、クウェート市内のイラク兵が病院で乳児を保育器から出し床にたたきつけたなどと涙ながらに惨状を証言(「ナイラ証言」)、戦争に疑問を抱いていたアメリカ世論は一挙に反イラク色に染まったが、後に少女は駐米クウェート大使の娘で、現場にさえおらず、証言は虚偽であった事が発覚した。さらにその後、その殺害された乳児を埋葬したと主張するクウェート人医師も証言を行ったが、こちらも同様に虚偽であった。クウェートが占領された後の話で、戦争勃発原因とは関係ないが、アメリカの世論を反イラクに傾けることになった。
  • アメリカ政府は戦前、戦中にかけて、ことさらイラク軍の脅威を誇張し、世論を「武力制裁やむなし」と言う流れに変えたという意見がある。しかし地上戦になると、実際のイラク軍は装備も貧弱で士気もまるで無く、多国籍軍の猛攻から逃げ回るばかりだった。ただし、この種の話はよくあることで、イラクだけが特別ではなく、また、将兵の士気の低さを指摘する意見もあった。
  • 湾岸危機から戦争にかけて石油価格は値上がりし、結果的には欧米の石油メジャーは利益を得た。また、ソ連は和平工作をすることによって存在感を表したが、それは戦争直前のことである。

しかしながら、イラクがクウェートに侵攻したのは事実であり、さらにイラクは、「イラン・イラク戦争でイスラム革命からアラブ君主国家を守った」と自負していたが、クウェートが100億ドルとも言われるイラン・イラク戦争時の戦時債務の即時返済を要求。それをイラクが断るとイラク・クウェートの国境地帯にあるルメイラ油田から大量採掘を開始した挙句クウェートに侵攻したものの、友好国を含む国際社会からの批判を黙殺するなど、非難されるのはイラクの方であるという考え方が現在では主流である。

脚注[編集]

関連項目[編集]